第1次世界大戦

列強は植民地支配による利権争いで、お互いに対立するようになった。政策の相違からドイツ、イタリア、オーストリアの三国同盟が締結され、それに対抗する形でイギリス、ロシア、フランスの三国協商が締結された。この対立の構図の中でオーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺され、これをきっかけに戦争が始まる。第一次世界大戦である。オーストリアがセルビアに宣戦布告したのに対してロシアがオーストリアに宣戦布告。ドイツがロシア・フランスに宣戦布告し、戦争は世界中を巻き込む規模で拡大した。
 これに対し、日本は日英同盟に基づいて参戦し、アジアのドイツ領に進撃し、労することもなく領土を拡大し、漁夫の利を得た。

第2時世界大戦

ドイツでは、第一次世界大戦の戦後処理がずさんで、ベルサイユ条約による1981年まで続く賠償金を戦勝国に請求された上、世界恐慌の影響で70パーセントとも言われる失業率に達し、空前絶後の大不況に見舞われていた。この情勢下でヒトラーのドイツ労働者党が台頭し、230議席の大政党となった。ヒトラーは失業者に職とパンを与え、類稀なる演説の才能を発揮し、民衆の心を完全に掴んだ。そして秘密裏のうちに陸海空軍を強化、気づいた時には手におえないほどの軍事独裁体制になっていた。ヒトラーはスペインのフランコ将軍の内戦に力を貸し、オーストリア進駐、チェコスロバキアからズデーデン地方を割譲させ、本格的に動き始めた。ナチスドイツは共産主義(社会主義の急進思想)とユダヤ人を最大の敵として迫害し、ソビエト総書記スターリンを罵倒し続けていたにもかかわらず、突然ソ連と不可侵条約を結び、世界を驚愕させた。日本政府は「欧州の情勢誠に不可解」と頭を抱えた。そしてドイツはソ連と水面下でポーランドの分割を決定し、直後国境線を越え、陸と空からポーランドへ殺到。新戦術である電撃戦(BLITZKRIEG)を採用し、圧倒的戦力差の前にポーランド軍は壊滅、一ヶ月でワルシャワは陥落する。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第二次欧州大戦が始まる。ドイツはフランスもたった6週間で降伏させ、イギリスをも降伏させそうな勢いであった。

一方ドイツの快進撃を見た日本では全ての政党が解散し、大政翼賛会が結成され、ドイツを真似た全体主義体制をとりはじめる。アメリカとイギリスの蒋介石援助体制はますます本格化し、フランスがドイツに破れると日本は当時のフランス領インドシナ(ベトナム)に進駐し、援蒋ルートと呼ばれる補給路を遮断した。これに対しアメリカは激怒し、石油を含む資源の全面禁輸を断行、周囲の国々もこれに習い、日本に一滴の石油も入ってこなくなった。日本はアメリカと外交交渉を開始し、妥協案を重ねた。場合によってはインドシナから撤退しても良いとまで譲歩に譲歩を重ねた。しかし、アメリカはかの有名なハルノートを突きつけ、日本を更に追い詰めた。アメリカの狙いはただ一つ、日本と戦争し、ドイツと戦争したい、それだけであった。アメリカは今でこそ考えられないが、他国の内政には徹底不干渉のモンロー政策をとっており、国民は圧倒的に戦争不支持だった。そんな中どうしても戦争したい時の米大統領ルーズベルトが日本に初めの一手を撃たせて、合理的に戦争に参加しようとしていたのである。それで日本を追い詰めるだけ追い詰めて戦争に誘い込もうとしたのである。しかももっと悪いことに、ハルノートを作成した米財務省高官はソ連のスパイであったことが最近明らかになった。日米戦争、日中戦争ともに、日本はソ連にもいっぱい食わされたのである!
 ハルノートとはインドシナ、支那からの全面撤退を要求したもので、要するに「中国に降伏しろ、そうすれば石油をまた売ってやるかもしれない(やらないかもしれない)」といったもので、あまりにも横暴で無茶苦茶な要求であった。日本政府はこの要求に絶望し、多年練磨の陸海軍を持ちながらむざむざアメリカにやられてなるかと、開戦やむなしと決定する。天皇もこれを承認するしかなかった。
 そして、1941年12月8日ハワイ基地の米太平洋艦隊を、南雲中将率いる機動部隊が奇襲。18隻もの艦船を撃沈し、死者行方不明者4000人を超す大戦果を記録し、以後大東亜戦争が勃発する。アメリカ世論は「リメンバーパールハーバー!」の掛け声で一つになり、昨日までの反戦世論が嘘のように戦争支持に傾いていった。

 日本軍は真珠湾奇襲と時を同じくしてフィリピン、マレー、コタバルに進撃し、緒戦で電撃的に勝利を治め、1942年2月には要塞シンガポールが陥落、ビルマなどでも米英蘭連合軍を打ち破った。現在の歴史教育では「日本はアジアを侵略した」と教えられるが、日本軍は現地人に武器を与え、戦闘法、戦う意味、独立の意義を教育し、アジア人全員で白人の不当な支配を跳ね除けるように期待した。事実、戦後、独立戦争が激化し、東アジアの国々は差別主義者の白人を跳ね除け、次々と独立を果たした。その独立戦争に力を貸した日本人も数多くいた。ビルマでは今でも建国記念日に日本の軍艦マーチが演奏されるという。
 しかし一方で日本軍は南方に石油を取りに行くことを第一としたことも間違いない事実で、あれは何も慈善事業ではない。そのことについて批判する人もいるし、現地住民を虐待したという逸話もちらほらと聞こえてくる。しかしその中には誇張されたものも少なからずあるようである。

 その後日本軍は快進撃を続けるも、真珠湾で撃ちもらした米機動部隊による東京初空襲に驚愕し、暗号を解読されているにもかかわらずミッドウェー島攻略をあせって惨敗、正規空母4隻、歴戦の兵員3000名以上を失う。時を同じくしてドイツ軍もソ連軍の反撃にスターリングラード攻略に失敗、歩兵主力の第6軍、30万が降伏した。これを境に独軍は東部戦線において勝機を失い、占領地を一つ一つ奪還されていき、西部戦線に置いてはシチリア島上陸、ノルマンディー上陸を許し、ナチスは破滅へと向かっていく。そして、日本は独軍の劣勢からアメリカとの早期講和の道も閉ざされ、ガダルカナル島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄と悲惨な玉砕を繰り返し、2発の原爆と、ドイツとの戦いを終えて余裕を持った極東ソ連軍の参戦から、急速に破滅することと相成った。以後、日本は国体を護持すること、つまり天皇陛下を守るために武装を放棄し、廃墟の中から新しいスタートをきることとなった。日本はアメリカ型民主主義を徹底的に教育され、ほとんど日本人としての自覚を失うまでに精神が荒廃した。軍事面でも世界中からアメリカの保護国と見られても仕方がない状況である。日本は敗戦したことによってもはや二度と立ち直れないかもしれないほどの文化的、民族的な大打撃を受けたのである。

日中戦争
1937年7月、盧溝橋で中国軍が、訓練中の日本軍に対して発砲するという事件が起こった(盧溝橋事件)。日本軍は反撃したが、この衝突は4日後に休戦協定が結ばれ、それ以上拡大することはなかった。問題はその後に起きた通州虐殺で、通州保安隊の中国人が在留邦人300名を残虐の限りを尽くして殺害、日本国内では怒りの世論が巻き起こった。通州事件に限らず、中国国内では中国共産党とソ連のコミンテルンの陰謀による日本人排斥運動が激化していた。
 蒋介石率いる国民党は毛沢東率いる中国共産党と果てしない内戦を繰り広げており、共産党は国民党と日本を戦争させてお互いを弱まらせ、漁夫の利を得ようとしていた。共産党は反日キャンペーンを大規模に実施し、テロを繰り返した。その結果、蒋介石は日本と和解すれば弱腰と叩かれ、日本は邦人保護のために軍を派遣しないわけにはいかなかった。こうしてソ連とその下で忠実に働く毛沢東の中華ソビエト臨時政府による陰謀で、日中は遂に上海で激突、全面戦争となる。泥沼の日華事変の始まりである(支那事変とも日中戦争とも言う)。38年には、日本軍は中国の首都を含む主要拠点、鉄道沿線のほとんどを制圧するが、反日政策をとるアメリカ、イギリスが蒋介石に莫大な援助を実施した他、便衣隊といわれる女、子供、老人を含めた私服の武装ゲリラが頑強に抵抗し、戦争は泥沼化、持久戦争の様相を呈していく。

ボスニア紛

ボスニアもマケドニアやスロヴェニアの独立に触発され住民投票によって独立を決定した。しかしこの住民投票はセルビア人はボイコットしていた。ユーゴ政府がセルビアよりなのでセルビア人は独立したくないのである。これはクロアチアでも同じであった。このボスニアの独立決定にユーゴ軍が介入し、ボスニアの7割までもが制圧されたが、後にクロアチアとムスリムが連携して盛り返し、盛り返すと今度はこの2勢力も仲違い、泥沼の三つ巴の内戦へと発展する。この間に過酷な民族浄化が横行し、この事態を重く見た国連がセルビア側に停戦を持ちかけるがセルビアがこれを拒否したため、NATOはボスニアを空爆した。この空爆によって力を落としたセルビアは、ボスニアを2分割する和平案に合意(デイトン合意)、ムスリム人、クロアチア人の「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」とセルビア人による「セルビア人共和国」という2つの自治国家が連携して「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」という主権国家が成立することとあいなった。現在では割と非民族主義的な政権が統治しており、治安は安定しているそうである。

コソヴォ紛

 コソヴォは新ユーゴスラヴィア連邦の中のセルビア共和国の中にある自治区である。コソヴォはチトー政権下では大幅な自治権が認められていたが、チトーの死後、経済的不満が高まるにつれて共和国への昇格が求められてきた。しかし、1989年、当時セルビア共和国幹部会議長のミロシェビッチがコソヴォの自治権を最小限に縮小。アルバニア人への差別政策が始まる。
 コソヴォにはアルバニア人とセルビア人が9:1の割合で生活している。セルビア人にとってコソヴォはセルビア正教会発祥の地であり、重要な土地である。一方アルバニア人にとっても6世紀以前から先祖伝来の土地がコソヴォだった。両民族はお互いがコソヴォの盟主であると主張する。
 1991年にスロヴェニア、マケドニア、クロアチアが独立し、これに触発されたコソヴォも共和国への昇格を求めたが連邦政府はこれを拒否した。
 1997年、コソヴォでは穏健派が退けられ、アルバニア人によってコソヴォ解放軍(KLA)が組織され、民衆の支持を集めた。KLAの資金源はお隣のアルバニアや欧州のアルバニア人たちだった。KLAとセルビアの治安維持部隊は数回に渡り武力衝突を行い、双方に甚大な被害が出た。これに対し、国連安保理は和平交渉もお膳立てをするが新ユーゴ連邦側が拒否したため決裂、99年3月北大西洋条約機構(NATO)は平和のためにユーゴの空爆をはじめた。6月、ミロシェビッチは和平受け入れを受諾、NATO軍も撤退することとなる。
 和平後は国連軍が常駐し、新自治政府の樹立を目指して活動を続けている。この和平の結果、アルバニア人が強大な権力を握ることとなり、セルビア人にとっては不本意な結果となった。

民族浄化

各紛争で恐るべき虐殺や集団レイプなど、いわゆる民族浄化が横行し、主にその悪役としてセルビア人のみが挙げられているが、これは西側によるプロパガンダで、各勢力おなじぐらいとんでもないことをしていた実態が最近になってわかった。この辺は映画「ボスニア」や「ノーマンズランド」がお勉強にちょうどいい映画でお勧めである。メディアや国連が憎しみを単純に煽り、紛争を余計激化させたと批判された。

「民族浄化」という言葉は、セルビア軍の攻勢に苦しむクロアチア側がアメリカ世論を味方につけて戦争を有利に進めるために作り出した、プロパガンダ用の言葉である。エスニッククレンジングという無機質で冷酷な響きが、セルビアを悪玉に仕立てるのに宣伝戦争に大いに利用された。

現在では、ジェノサイドに代わる言葉として広く使用されている。


女性は子供を生み、その子供は将来育って兵士となる。この論理で女性や子供こそ民族浄化のターゲットになり、多数が虐殺された

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