アンネの追憶

もう一つのアンネの日記

強制収容所度 60
人間愛度 50
泣ける度 50
総合得点 60

2009年イタリア映画。

「アンネの日記」は、オランダでとあるユダヤ人一家がナチス・ゲシュタポにとっつかまるまでの逃亡生活を描いた陰書であるが、どのような状況においても希望を捨てず、自由な精神で人を愛し、助け合う人々の姿、極限状態における人間の尊厳をうたいあげるホロコースト文学の金字塔であり、ノンフィクションスリラーの傑作でもあるとされる。

オランダでナチスドイツは残虐な人間狩りを実行し、親衛隊は独自のSD司令部を置いて、捕らえた人々の強制輸送を粛々と実行した。移送先は東部の各絶滅収容所や、その中間施設たるテレジエーンシュタットである。彼らの多くはガス室で工業的殺戮の洗礼をあびるか、狂気の医学実験の材料に供されるか、ひきうすで押し潰すかのごとき過酷な奴隷労働を強いられた。にもかかわらず生き残った適者生存の勝者たる適性ユダヤ人は、今後の反乱の芽を育てる指導者になりうる器とみなされ、やはり≪帝国保安本部≫の命令により抹殺されていくのであった…

アンネがオランダでゲシュタポに摘発されるのは1944年8月頃と推測されているが、この頃「この世のケツの穴」たるアウシュビッツ絶滅収容所は悲惨の限りであった。今やこの殺戮工場はものの2、3時間で数千人の人間の身ぐるみを剥ぎ取り、奴隷労働と医学実験材料とを振り分け、どちらにも該当しないゴミをガスで殺戮し、金歯と結婚指輪を引っこ抜き巨大な火葬場で灰と煙に変えてしまうことができた。

同時期、ヒムラーの命令を受けた帝国保安本部ゲシュタポB4課長アドルフ・アイヒマンSS中佐が率いる"対ユダヤ人問題の専門家"チームがハンガリーで生き残っていたユダヤ人コミュニティーを現地民と協力して文字通り破壊し、45万人のユダヤ人をたった数週間で"世界のケツの穴"に送り込んだ。

空前の規模で稼働した殺戮工場でもこの性急な強制輸送にガス殺と焼却が間に合わず、またソビエト赤軍が民族大移動のごとき大軍団を率いて帝国本土に押し寄せようとしていた。アウシュビッツでの重要任務は殺戮よりも証拠の隠滅と残存収容者の撤退へとシフトしていく。線路が破壊され、列車を前線に取られ、囚人たちは機関銃を持った髑髏部隊※や残虐極まる非ドイツ民族傭兵によって徒歩で帝国本土へと移動を強いられた。

※SS-TV
シュッツシュタッフェルトーテンコプフバーダント
ナチス親衛隊強制収容所監視部隊

アンネが捕まったのは、ホロコーストの悲惨な歴史の頂点を極めたその時期であった。アウシュビッツに送られ、あまりにも膨大な順番待ちのためにガス殺をまぬがれ得た。しかし上記のように赤軍の砲声が迫る頃、アンネは帝国本土内にあった≪ベルゲンベルゼン強制収容所≫に移送されるのである。

ベルゲンベルゼンは戦争末期、栄養不良で労働に適さない虚弱な者たちがかき集められ、ただ放置された場所である。収容所はチフスが蔓延し、環境は最悪だったがガス室はなかったと言われている。

アンネはガスであっさり死ねたのではない。強制労働と衰弱、栄養失調に赤痢にチフス。骨と皮だけになって人肉食も経験したかもしれん。朽ち果てた屍体を喰われたかもしれん。そして他の死体と一緒にブルドーザーで埋められたのかもしれん。ベルゲンベルゼンはそれらがいずれもありえた恐ろしい場所であった。

この悲惨な歴史に想いを巡らせた時、この映画で描かれるホロコーストが
はたして正しいと言えるのかどうか…

アンネが隠遁生活を送る姿は、映画冒頭で少し描かれる程度。基本的にはアンネがゲシュタポに捕まったあとに送られる強制収容所での悲惨な生活を映像化している。原作は「もうひとつのアンネの日記」。これは想像を交えたフィクション。

フィクションでも構わない。細部がしっかり作られていれば。しかしこれは収容所での残虐描写はかなり抑えめである。収容所での監視部隊は時には紳士的とさえいえるほど優しかったりもする。

まあ彼らも人間的な葛藤をしながら、殺人工場で働いていたに違いないが、大抵のドイツ人やその協力者たちは命令と任務に忠実で、残念ながら反乱などほとんど起きなかった。

収容所での生活は拾うところひとつない地獄だったのである。この映画には残念ながらその辺のリアリティは全く期待できない。

だが、表現はヌルくとも、描かれている現実はまさしくハードコア。子供たちが大煙突から煙がもくもく立ちのぼるクレマトリウムにお歌を歌いながら去っていく光景は大変に残酷。

映画後半、アンネと母親がベルゲンベルゼンに送られるのと、アウシュビッツにそのまま居残る父、オットー・フランクの姿が並行して描かれている。父は赤軍の砲声下の大混乱の中ですんでのところで命をながらえるが、アンネと母親はガス室で殺されたかのような描き方をしている。ベルゲンベルゼンにガス室はなかったとされており、これはチグハグな描写である。すでに書いたように、ベルゲンベルゼンの方がある意味では過酷な場所であった。アンネは楽には死ねなかったのである。

父オットー・フランクは、生涯ベルゲンベルゼンを訪れることはできなかったという。

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