白バラの祈り 〜ゾフィー・ショル最期の日々〜

傍観も共犯である

勇気度 100
高潔度 100
ゲシュタポ度 70
総合得点 80



2005年ドイツ映画。
白バラの祈りを劇場でみた当時、おれは失業のさなかにあり、生活のことで頭がいっぱいであった。だからこの映画でゲシュタポ警部が何度も繰り返す
「国家社会主義政府に守ってもらって学校行かせてもらって飯も配給されてるくせになんでたてつくのん」というロジックに完全にノックアウトされたのである。

そんなおれが、
「なんもしなくてもドイツ人というだけで、飯も食わせてくれて大学にもタダで行けるのん!?めっちいいじゃんそれ!ちょー羨ましいじゃん!」という幼い誘惑に飛びつくのも容易いわけである。ゾフィーはちょっと頭がアレなのではないか、とすら思った。

しかしあれから時が流れ、おれも職を得て
家庭を持った。毎日仕事をし、給料をもらう日々だ。こうしてまともな人間になるのに、おれが少しも苦労しなかったとは思わない。すべてが自己責任の資本主義社会で、おれが口にのりするのに政府の助けなど小指の爪の先ほどもなかった。シャツ一枚、芋一個くれたこともない。健康保険にも入れない俺に政府は税金や年金を要求するばかりで、おれは自分のことは全部自分でやらなけれなばらなかった。おれを助けてくれたのは周囲の人々であり、家族であり、自分自身である。政府の入り込む余地などわずかもない。

こうしてみると、日本は民主主義かもしれないが政府の力は弱く、国民は自分が生きるのに必死で他人を顧みる余裕はない。信じられるのは自分だけ。隣人に挨拶することさえためらう相互の人間不信。団結心など皆無。神は金であり、信じられるに値する価値観は金と物だけ。我々の社会はかくも貧しい。

かくも貧しい社会で息も絶え絶えに暮らすおれは、
社会主義や独裁国家を少し羨ましいと感じたことがあることを告白する。
ただ、政府に忠誠を誓い、独裁者のいう通りにしていれば飯を食わせてくれる甘えた社会。どんな職について何を信じてどのラジオ放送を聴いて何時に起きて何時に寝れば良いのか。全てナニのデカいやつのいう通りにしていれば良い。考える必要はない。全部価値観や規範を他者に預けて、食って働いて寝てれば良いのだ。

映画は、ショル兄妹が反ナチビラを配って警察に捕まるところから始まる。ゾフィーは犯行を否認するが証拠を揃えられてあえなく論破されると一転自分たちの行動は間違っていないとゲシュタポ捜査官と論戦を始める。論戦を続けるうちにゲシュタポ捜査官も熱くなっていき、ゾフィーに説教をする。ゾフィーのやることは犯罪と思っているが、彼らも司法の番人として真剣に仕事をしているのである。

ゲシュタポ捜査官はいう。

「戦時下でも学べるのは政府のおかげだ。君たちは総統に学校に行かせてもらって食糧も配給を受けていて、外国の軍隊からも守ってもらっている。その身分に甘えて反政府活動とはおかしいのではないか?

民主主義の世なら私は父のあとをついで仕立て屋どまりだ。今の仕事につけたのはフランスによる占領のおかげだ。さらにナチズムの運動がなければ、きっと今でも田舎で巡査をしていた。

ヴェルサイユ不平等条約が生んだインフレと失業と貧困をー
ヒトラー総統が解決してくださったんだ。」


政治によって今よりましな暮らしができる。それはとても幸運なことでないか。人は自分の運命に抗えるほど強くはない。生きるだけで膨大なエネルギーを使い、それ以上を望むなどとても考えられないからだ。だが、あの時代、ヒトラーによってしょっぱい天命から解放された人々がいたのだ。彼らがヒトラー政権を支えたのである。自分自身で生きることを強いられる民主・資本主義よりも、自由は縛られるが何も考えずにすみ仕事と食糧を与えてくれる国家社会主義政府を選んだのだ。

だが、ゾフィーはこの甘えた社会で自由を説く。守ってもらっているのではなく、制限されているのだと。官憲は自分を逮捕し、両親まで逮捕しようとしている。ヒトラーはドイツを負け戦に引きずりこみ(それもこれも実は経済政策で失敗していたからである)、たくさんの軍人を死なせている。占領地では罪もない女性や子供を何百万も処刑している。
今声をあげなければ、ドイツ人は今後数百年世界中の人々からヒトラーを受け入れたと非難される。

ゾフィーは恋人が東部戦線で戦うドイツ軍人であった。手紙で東部戦線の惨状を聞いていた。
またユダヤ人の迫害、近所のユダヤ人のフランクさん一家がいつの間にかまるごといなくなった。噂では東部に労働に行かされてる。でもあそこの子供はこの間生まれたばかりなのに…子供も労働?
精神病患者が満載されたトラックが郊外の病院に連れていかれてる。誰一人帰ってこない。あの病院はそんなに大きかったかしら?たくさん連れていかれて誰も帰ってこない。煙突からモクモクと煙が立ちのぼっている…

独裁は甘美である。特にナチスは官能的である。大衆は性質として独裁を好む。決断を何か大きな力あるものに預ける…大衆にとっては一番それが楽である。しかしそうやって自らの良心に目をつむり眼前の大虐殺を黙認するのならばそれは…もはや共犯者であり、ドイツは今後数百年、ヒトラーを受け入れたと世界中から批判を受けるだろう。これはシュタウヘンベルクと同じ考え方である。

ナチの犯罪を国民は大部分が知っていた。だが、飯と仕事のため大部分のドイツ人は見て見ぬふりをした。生活のため保身のため…こんな社会で"甘えた身分"であっても声をあげ行動したゾフィーは立派だったのではないか、と思える程度にはおれも大人になった。

ゾフィーはリンチのような裁判にかけられて処刑される。彼女だって死にたくはなかった。だが卑怯な臆病者が蔓延する社会に一喝するにはこうするしかなかったのかもしれん。彼女やシュタウヘンベルクの存在がナチ時代のドイツ人の良心として記録されているのは、今を生きるドイツ人にとっての救いである。彼らがいなければドイツ人は単なる共犯者だったというしかない。

リンチ裁判で登場する最高判事の
ローラント・フライスラーだが、彼はナチの古参で筋金入りである。「我々は法曹の装甲軍団だ」との迷言?を残している。この人民裁判の様子は狂気に満ちていて一見の価値ありだ。さんざん被告を罵った挙句死刑を言い渡すフライスラーに対し、ゾフィーが呪詛の言葉を投げかける。「今にこの場所にあなたが立つことになる」 フライスラーは終戦を待つまでもなく爆撃で死亡する。

(ただ、フライスラーの裁判がむちゃくちゃだったのは有名だが、白バラ裁判の時のフライスラーは結構冷静だったそうである。映画は脚色されているとみて良い)

裁判の翌日、ゾフィーはギロチンで断首処刑された。22歳だった。ショル兄妹がビラをまいたミュンヘン大学ではその行為がメモリアルとして残されている。ミュンヘン大学は誰でもはいることができる。

映画としてのできは、派手さはないがとても丁寧な作りで役者陣も演技力が高くしんみりとのどの奥に熱いものを感じる良作である。





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