ムッソリーニの野望

ムッソリーニ誕生
 1883年、7月23日にイタリア中部の小集落で生まれる。父は鍛冶屋で社会主義者だった。暮らし向きは普通で、決して貧しくなかった。18歳のときに教員の資格を取り、小学校の教師になるが1900年の時点で既に社会党員だった彼は1902年に兵役を逃れるためスイスに亡命。1904年まで職を転々としながらこの地にとどまる。この間ロシアからの政治亡命者(国際共産主義者)の仲間に入って見識を広めたばかりでなく、ドイツ語、フランス語を覚える機会を得る。
 スイスで兵役忌避の罪で捕まるが、恩赦で釈放された後、本国に戻り2年間の兵役につく。兵役を終えるとまたあてどもない放浪生活に入る。その間に母を失ったり、ロマーニャの農民運動を扇動したかどで投獄されたりもしている。1909年、父親の後妻の連れ子であったラケーレと結婚する。彼女は政治や出世には全く関心を示さず、生涯忠実に夫を支えた。ムッソリーニとの間に5人の子をもうける。

 ムッソリーニは次第に社会主義運動に身を投じるようになり、地方新聞に激しく社会主義的論調を張り続け、次第に名声を勝ち得ていく。
 1912年社会党本部に呼び出され、ミラノで発行されている社会党の機関紙「アヴァンティ」の編集長に任命され、活躍の場を広げる。
 1914年第一次世界大戦が勃発。イタリアでは参戦論と中立論が国論を二分する。ムッソリーニはアヴァンティ紙上で中立論を展開していたが、すぐに参戦論に変わっていき、世間を驚かせた。参戦論は社会党本部としては不本意なもので、ムッソリーニは社会党を除名される。その後彼は「イル・ポポロ・ディタリア」という日刊紙を発行し、参戦論を主張し続け、イタリア参戦の決定的役割を果たす。
 1915年五月、イタリアは参戦し、ムッソリーニ自身も招集され狙撃連隊に編入される。1917年に負傷し、本国に帰還、再び「イル・ポポロ・ディタリア」で国家主義、領土拡張主義の論調を唱え始める。

 ムッソリーニが社会党を除名された事件はファシズム発祥の歴史において決定的意義を持つ事件である。短期間の間に社会主義者から国家主義者へと変わった理由は未だ明らかにされていない。有力な説として、元々野心家であった彼は、戦争が始まるとともに自分が成り上がる手段として社会主義よりも国家主義のほうが適しているのではないか、と考え直したといわれている。彼は元来信念を持った社会主義者ではなく、権力獲得の手段として国家主義に傾倒していったというのである。

 大戦は国家統一後50年にも満たないイタリアを揺さぶった。民族的不統一や政治的混乱はいっそう強まった。イタリアは一応戦勝国になれたがその犠牲は計り知れないもので、67万人が戦死、100万人以上が負傷した。経済も破綻した。持てるものと持たないものの格差はますます拡大し、戦争帰還者たちは資本家が戦争によって利得を膨らませたのを見て激しく憤り、国家主義や社会主義に傾倒していった。1917年以降にはソヴィエト連邦社会主義共和国に目を奪われ社会主義運動が活発化した。
 この頃生まれつつあったファシズム思想は、これら国家主義と社会主義の間で生まれた新思想で、極めて紛らわしく、むしろ社会主義であり国家主義であるといって良いよう風変わりな思想だった。

胎動
 破綻したイタリアを立て直すべく、強い影響力を持っていたのは軍人たちだった。1919年、マリオ・カルリという人物が、元突撃隊の兵士たちを集めて、ミラノで「突撃隊員協会」を発足。会員たちに軍服を着せ、軍隊用語を使わせた。これが勢力を拡大していくと、それに対抗すべくさまざまな社会主義団体が生まれ、特に「イタリア人民党」が勢力を拡大していく。同年、世間から完全に風化した存在となっていたムッソリーニは突撃隊員を糾合して「ファッシ・イタリアーニ・ディ・コンバッティメント」を発足させた。いわゆる戦闘ファッシである。

 戦闘ファッシは奇妙な団体で、ムッソリーニのファシズム運動の象徴だった。領土拡張主義を掲げて国家主義的側面を見せたかと思えば、左翼、共和、社会主義者を結集しようとしたりした。ムッソリーニはこう言った。「我々は時と場所に応じて貴族主義と民主主義、保守主義と進歩主義、反動主義と革新主義、合法主義と無法主義を使い分けようではないか
 隊員は征服として黒いシャツを着用した。

 戦闘ファッシは勢力を拡大し、1919年末には1万7千人を数えた。残る課題は伝統的な政治勢力に食い込み、議会で議席を獲得することだった。しかし1919年の比例代表制普通選挙では完全に惨敗し、議席を一つとして獲得することができなかった。左派が圧倒的勝利を収め、社会主義政党の得票数は17万票だったが、戦闘ファッシはたった4千票あまりであった
 とは言えこの選挙は投票者の50パーセントが棄権しており、国民は極めて政治に無関心だった。

 1920年代に入ると厳しい不況に陥り、暴動やストが多発した。ソヴィエト赤軍がポーランド侵攻に失敗したことによって、ロシア革命が外に波及する望みが立たれ左派が没落したが、イタリアの有力な資本家たちの間で赤色革命の恐怖は依然過ぎ去ることはなく、社会主義革命を防ぐ防波堤としてファシストに目をつけ、これに資金を流すようになるのである。戦闘ファッシは勢力を更に拡大し、自由主義勢力や社会主義勢力、それの息のかかった労働組合事務所や役所や職業紹介所などを片っ端から襲撃し、あからさまな暴力を繰り返した。これに対し、警察当局は見てみぬふりをし、不干渉の立場を取ったのでファシスト突撃隊の暴力はエスカレートするばかりであった。

 1921年の選挙では政治不信から、自由主義勢力が無残に没落し、ファシストは32議席獲得した(社会主義勢力の議席の方がまだかなり多いが)。ムッソリーニは政権獲得を秘かに夢見、戦闘ファッシを正統な政党に鞍替えさせ、党独自の労働組合である「労働組合総同盟」を結成した。ファシスト党は勢力を更に更に拡大させ、1922年春には72万人にまで膨れ上がった。左派や自由主義勢力が没落したために、もはやファシストを民主的手段で止める術はなくなっていた。世論は圧倒的にファシストを支持し、不法行為にも目をつぶった。

政権獲得
 ローマ進軍として有名な政権獲得劇は、ムッソリーニがイタリアを支配した象徴的な出来事であったが、実はそこまで華やかなものではなく、あっさりクーデターは成功する。イタリアの資本家をはじめとした名望家たちが自由主義的なイタリアを諦め、全体主義で国を統率していくことに賭けたこともまた事実で、国民も自由よりも日々の生活の方がよっぽど重要だった。
 ムッソリーニのファシスト突撃隊である黒シャツ隊は既に軍隊として武装しており、独自の階級社会を編成していた。それらの資金は名望な資本家たちがまかなっていた。

 1921年10月、雨の降る寒い日をついていよいよクーデターが実行に移された。進軍開始の命令の際ムッソリーニは怖気づいて命令を渋ったという。
 ムッソリーニ自身はミラノで待機し、黒シャツ隊はナポリからペルージャ近郊に集結した後ローマに向かった。はじめにローマに到着したのはローマ近郊から出発した分遣隊で、進軍を続けるうちに4万人にまで膨れ上がっていた。とはいっても士気は低く、装備も悪かったらしい。しかし王は全く抵抗せず政権をあっさり明け渡す。王の近隣にまでファシスト勢力の手は伸びており、抵抗することによって命の危険があり、王はそれを知っていたため抵抗を諦めた。そしてムッソリーニはあっさりとローマ入りし、組閣した。

 ムッソリーニは社会、自由、保守…とさまざまな人材を政権にすえ、反発を回避した。対外政策も穏やかな方針に決め、近隣諸国を安心させようとした。ムッソリーニは地味にゆっくりと独裁のための努力を続け、近場をファシスト勢力で固めていった。1924年の選挙では第一党にのし上がり、1926年他政党を解散させ独裁を完成させた。国の最高機関に「ファシスト大評議会」がすえられた。

 ムッソリーニの人気は絶頂になり、イタリア全土に肖像画が張られた。彼がヨーロッパ初の自動車専用道路網、鉄道の電化、農地改良などの公共事業を次々と成功させたためであった。彼は善政をしいたので国民の人気は高かったが、秘密警察「オヴラ」による抑圧に耐えかねて国を去っていく知識人も多かった。

蜜月時代から屈従へ ヒトラーとムッソリーニ
 1933年アドルフ・ヒトラー率いるナチスがドイツを掌握し、瞬く間にドイツをヨーロッパで覇を争う強国に変貌させた。ムッソリーニははじめは軽蔑していたヒトラーに圧倒されるようになり1937年には日独防共協定に参加し、イタリアはドイツと運命を共にするようになっていく。
 ムッソリーニは内政の成功によって更に経済を成長させることも十分可能だったが軍備拡張の道にひた走る。これはファシズムの暴力的性格や懐古主義的な神聖ローマ帝国の憧憬に由来していたが、何よりムッソリーニが植民地獲得のための帝国主義的政策に魅せられていたためだった。そして1935年エチオピアに侵攻した。この侵略行為により国際連盟はイタリアを非難し、経済制裁を行ったが、国際連盟ははなからアメリカが加盟していない、日本、ドイツも脱退している、というように大した力を持った組織ではなかったため、大した成果を挙げられず侵略を黙認する形となってしまった。そして石油会社は商売のチャンスと見て積極的にイタリアに石油を売る始末であり、日本の満州事変によって国際連盟の威信は大いに下がったが、このエチオピア侵略によってますます見る影もなく没落したのであった。そしてヒトラーのラインラント進駐へとつながっていくのである。
 イタリア軍は爆撃と毒ガスをふんだんに使って半年で勝利し、エチオピアを併合した。
 この勝利によってムッソリーニは力こそが正義と信じるようになり、ドイツと協調、屈従へと歩を進めていく。戦争によって愛国主義の風潮はいっそうたかまり、ムッソリーニの人気もすさまじいものだった。
 この戦争でドイツがイタリアを支援したことや、スペインのフランコ将軍の反乱に協調して支援したことによってイタリアとドイツの関係は蜜月時代を迎えていたが、既にこの二人の主導権はヒトラーに移ろうとしていた。というのもムッソリーニはフランコ将軍の反乱に正規軍や黒シャツ義勇軍を7万人送ったが、何一つ戦果を挙げられず敗退した。一方ドイツは必要最小限の支援で経済的政治的威信を最大限に高め、新兵器の実験に成功までしており、二人の政治家としての格の違いを見せつけた。イタリア軍の質の悪さはかろうじて注目されることはなかったが、その為改善されることもなかった。
 1937年にヒトラーとムッソリーニは会見しており、ムッソリーニはヒトラーに「比類なき世界一の政治家である」と褒め称えられたが、ムッソリーニは心中完全に圧倒されていた。ドイツの圧倒的な国力、国民の団結力、勇壮な軍隊、どれ一つとってもイタリアの勝てるところは何一つなかった。これをきっかけに独自の外交政策を推し進めていたムッソリーニはヒトラーに追従することを決めるのである。それはイタリアの歴史的汚点だった。

 同年、日独伊反コミンテルン協定に参加し、国際連盟を脱退する。ドイツはいよいよ国際連盟を侮り、オーストリア併合に踏み切った。しかし、このことがムッソリーニに知らされたのは既に合併が軌道に乗り始めた頃で、イタリアは対オーストリ用に進めていた政策を全て中断させられてしまった。オーストリアとイタリアの国境線もドイツ次第になってしまい、国民の間に動揺が広がりファシスト党に対する批判が高まりつつあった。

 続いて歴史は休むことなく進んでいく。
 ヒトラーはチェコのズデーテン地方に干渉を始め、緊張が最高潮に高まっていく。イギリスのチェンバレンやムッソリーニは戦争回避のためのミュンヘン会議にのぞんだが、終始ヒトラーが有利に交渉を進め、自由主義陣営の多大な譲歩とチェコの犠牲によって戦争は回避されたかに見えた。しかし、ヒトラーは止まらずポーランド侵攻へと突き進んでいく。

欧州大戦
 1939年ナチスのポーランド進撃の折にはムッソリーニは準備不足を理由に参戦を見送ったが、ドイツ軍がパリ陥落寸前にまでフランスを追い詰めるとドイツの勝利間違いなしと見て、参戦した。イタリアはリビア、ギリシャ、エジプトなどに大規模な軍隊を送ったが、世界最弱と名高いイタリア軍は全ての戦線で無残に敗退、ドイツの尻馬に乗ったつもりがドイツに尻拭いしてもらう始末であった。このためイタリアは完全にドイツの衛星国として追従する以外に手がなくなり、元々人種差別政策などなかったイタリアでもユダヤ人迫害が始まる。しかしナチスほどの徹底的なものではなくかなり適当なものだったらしい。

 1943年、ロンメル将軍のアフリカ軍団が北アフリカで全滅すると、イタリア軍も撤退するしかなかった。自分ひとりでは少しの抵抗もできないほどイタリア軍は弱かった。アフリカ軍団は元々北アフリカで敗退したイタリア軍の尻拭いの為に到着した援軍だったにもかかわらず、指揮を取っていたのはドイツの将軍だったのである。ロンメル軍団はロシア侵攻のために用意された、西部戦線でも戦果を上げた精鋭の装甲軍団であったが、イタリアが無駄に戦線を広げてしまったため、本来戦わなくてもいいアフリカ戦線の連合軍まで敵にまわしてしまい、ドイツのロシア侵攻が一ヶ月遅れたといわれている。そして一ヶ月早く到来した冬によって、ドイツ軍はすんでのところでモスクワ攻略に失敗し、不敗を誇ったドイツ軍は敗北の足がかりを作ることとなってしまった。そしてドイツの敗北は、当時ドイツの勝利が前提条件とされた、日米戦争の早期講和にまで狂いをもたらし、日本とドイツは歴史に悪名を轟かすこととなり(しかもイタリアはさほどでもない)、今でも歴史認識で外国から内政干渉を受ける事態となってしまったとさ。チャンチャン♪

 話がそれたがアフリカ戦線で敗北を喫するとやがてイタリア南部のシチリア島に連合軍が上陸した。するとあっさりムッソリーニは解任され、イタリアは連合軍に無条件降伏、逆にドイツに宣戦を布告する。呆れた外交上手である。ここまであっさり侵略戦争を終わらせた国はそうない。ムッソリーニは連合軍に逮捕されるが、ナチス親衛隊の特殊空挺部隊によって救出され、社会主義に立ち戻って、北イタリアでサロ共和国を建国するが、従う者は少なく、戦線の崩壊とともにムッソリーニはスイスに亡命中にイタリア人対独抵抗運動家たちの手によって捕らえられ、愛人とともに処刑され公衆の面前で吊るされ、冴えない形で生涯を終えた。




 やはりムッソリーニの失敗は経済成長の道を諦め、ドイツと協調、軍拡の道を進んだことだったのではないかと思います。それがなければムッソリーニも偉大な政治家であるということができそうです。ヒトラーも同様だが独裁者は迅速に物事を決めるが失敗を修正する力がない。たった一度の失敗がこの動乱の時代には致命傷になってしまったのでしょう。



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