サダムの野望

はじめに
 サダム・フセインが米軍に拘束されたニュースは世間を騒がせました。遂にヤツも捕まったのです。影武者ではないかという説もありますし、戦争が終結する気配もまだないわけで、これからも世界の目は中東に釘づけなのは間違いありません。
 特に我が国は戦後初の自衛隊の海外武力派遣を敢行するわけです。我が国の軍隊が一体どのような場所にどのような理由でどのような敵と戦いに赴くのか、我々が理解しておいたほうが、自衛隊の皆さん方も心置きなく…戦えるかどうかはわかりませんが、同胞の日本人の行く末を見守ると言う意味でも基礎知識ぐらいはあったほうがいいかもしれません。

 フセインは極悪人です。とんでもないヤツです。金正日の方が危険だと言う人もいますが、わたしはそうは思いません。そして、無能な人間でもありません。大悪党と英雄は紙一重…この男の人生を語ることで、現在のイラクの立ち位置、戦争の始まった理由などがわかってくるから不思議です。今自称平和主義者の方々は口々に「米軍はイラクから撤退しろ〜」とか言っております。それがどんなに無知で底の浅い意見なのか、ちょっとでもわかってもらえればよいと思います。

 ここではワイドショーやアホメディアがよくやるように、アメリカやフセインのどっちが悪い、みたいな書きかたはしません。公平に事実に近づけるように書ければよいと思います。よってこうするべき、というような意見や政治的もくらみは全くありません。なるべく事実を書いて一人一人が考えていくべき問題だと考えます。ちょっと堅苦しい書き方しましたが、それぐらい複雑でどっちが悪いともいえない問題なのですよ。なるべく筆者の身の丈にあった軽い書き方をするので、どうぞ軽く読んでください。



サダム誕生
 チグリス川流域の地方都市、ティクリートに近い寒村で生まれる。生年月日は諸説あって定かではない。1935年〜1939年と目されているが、これはサダム自身もはっきりわかっていないと思われる。要するに貧しい家庭で生まれたのである。生まれて程なくして叔父であり、軍人であるハイラッラーに引き取られる。この叔父がサダムの人格形成に大きく関与していると考えられている。
 サダムが生まれた当時のイラクは王制が敷かれており、第一次欧州大戦で敗れたオスマン帝国が崩壊した後、分裂した王国であった。事実上英国の植民地に近い状態だったわけだが、クルド人が住まうイラク北部、イスラム教スンニ派が住まうバグダッド周辺、シーア派が住まうバスラ周辺に既に勢力が分かれている。イラク王国はこれらを統合したもので、早くから反英国粋運動が盛んになっていた。
 第二次欧州大戦が勃発し、ヒトラー率いるドイツ第三帝国が快進撃を続ける最中、サダムの叔父、ハイラッラーはナチスの掲げる国家社会主義に傾倒し、新たな国家体制をイラクにうちたてようとしたが、失敗して投獄される。サダムはそんな叔父を英雄視し、サダム自身も国家社会主義思想に傾倒するきっかけとなる。もちろん、ドイツ人至上主義などではなく、アラブ民族主義的な政治思想である。

 1958年、エジプトのナセル大統領はアラブ民族主義を掲げ、シリアやイエメンと組んでアラブ連合共和国を樹立する。そんな中、それに共鳴したイラク国内のアラブ民族主義を掲げるバース党はこの連合に加わろうとクーデターを起こし、王制を転覆、政権を奪取する。
 新政権のトップ、カセム准将は汎アラブ主義よりもイラク一国の国益にこだわり、やがてバアス党と対立を始める。そしてバース党を弾圧し、イラク共産党と手を組んでしまう。ヒトラーもそうだが、民族主義者と共産主義者は犬猿の仲である。バース党はこの裏切りに激怒し、カセム暗殺を決意する。その実行部隊の中にサダムがいたのである。
 しかし、暗殺は失敗し、サダムはシリアへ亡命。エジプトのカイロへ逃げ込んだりする。バース党員としてカイロ大学にも進む。このころハイラッラーの娘であり、いとこのサジダと婚約している。
 米国中央情報局(CIA)は中東の共産化を懸念し、共産党と組んだカセム政権を転覆しようと工作を始める。その甲斐あって、1963年、カセム政権は倒れ、後釜にアーリフが大統領、バクルが首相に就く。バクルはハイラッラーと親交厚いバース党幹部である。
 このクーデター直後、サダムはエジプトから帰還し、新政権の中央農民局に就任する。しかし、裏ではバース党の突撃隊とでもいうべき国家警備隊の創設に着手し、共産党員狩りを始める。緑色の腕章をつけ、自動小銃で武装した国家警備隊は過激に共産主義を弾圧し、約5000人の共産党員が殺害されたと言われる。
 バース党はアーリフとまた対立をはじめ、サダムはアーリフ暗殺をまたもや命じられるが、またまた失敗して投獄される。1966年には助けられ、脱獄。その後はバクルの下で政権転覆の陰謀に主要な役割を果たす。

 1968年、バース党によるクーデターでアーリフ政権は倒れ、バクルが大統領に就任する。バクル大統領はティクリート出身だったので、身近なポストを全て地元出身者で固める。ハイラッラーもバグダッド知事となった。サダムは入閣しなかったが、国家安全保障の責任者となり治安組織の構築に力を注いだ。主に共産党員を狩り続けた。そのときに暗躍したのが秘密治安組織ジハーズ・ハニーンである。
 サダムはこれ以後もイラクの意思決定をつかさどる、心臓部である革命指導評議会(RCC)の副議長に任命され、バクルの傍らで政局を左右するようになる。特に表向きは汎アラブ主義を掲げながらも真の目的は、シリア・バース党とイラク・バース党の分離、イラクの国粋主義、国家社会主義であった。

 バクルは反帝国主義、反ユダヤ主義を掲げ、共産主義やユダヤ系イラク人を弾圧した。残忍な公開処刑や拷問が人知れず行われるようになった。サダムの指揮するジハーズ・ハニーンやコミッサール(政治統制委員会)などの秘密警察、秘密保安部隊が暗躍した。サダムはこれらの組織の運用や構造、執行機関をスターリンの共産党を手本にした。サダムは強硬な反共主義者だったが、権力を握ってゆく過程をスターリンから学んでいたのである。すなわち、ヒエラルキー、規律、秘密である。
 1970年、革命指導評議会が国権の最高機関であると、バース党による新憲法で規定された。RCCの副議長はサダムである。そして事実上、イラクはバース党の一党独裁が決定したも同然だった。
 次にサダムが目指したのは、バース党の政敵抹殺、すなわち他の政党の消滅であった。

 血生臭い粛清が吹き荒れた。バース党に敵対するものはもちろん、ユダヤ人、共産主義者、クルド人、シーア派、そしてサダムの権力を脅かすと目された者たち。これらの多くは拷問にかけられ、処刑された。一切の容赦はなかった。網の目のようにはり巡らされた監視の目は、いかなる政敵をも見つけ出すことができた。これはサダムの才能だった。サダムは数多くの諜報部や秘密警察を掌握し、政敵を葬った。これらの弾圧に共産党やシーア派勢力は反政府活動を激化したが、サダムの治安部隊の前では流血の量が増すだけであった。

国家内務治安局アムン・アル・アンム…王制のころから存在する国内治安局。
党諜報局ムハーバラート…治安部門の中でも最も強力な部隊。
軍諜報部イスティフバラート…軍隊を監視し、国外の反体制派の暗殺などを請け負う。
政治統制委員会コミッサール…軍隊の監視。サダムの言うこと以外は聞かない。
※これらの治安部門のトップにはサダムの信頼できる血族や親族を据えた。

 このようにあらゆる反乱勢力はサダムの前で沈黙させられた。しかし、クルド人は違った。
 クルド人はオスマン帝国が崩壊した際に流れ出た難民で、イラク北部に自治政府を樹立して独立を主張していた。この北部地域には油田の開発が期待されており、クルド人は独立にも自信を持っていた。しかし、サダムにとってもクルディスタンは喉から手が出るほど欲しい土地だった。しかし、クルド人の背後には大魔王ソ連がいた。ソ連はペルシャ湾進出をひそかに画策していた上、バース党の共産党弾圧にご立腹だった。バグダッドを牽制するため、クルド人と組んだのである。

 サダムは陸軍と空軍に動員をかけ、クルディスタンへ侵攻、しかし、険しい山岳地帯でのゲリラ戦に苦しみ、敗北する。クルド人はイラク共産党とも手を組み、バース党にとって最大の敵へと成長しつつあった。サダムはソ連と交渉し、ひとまずクルド人と停戦する。その間も政敵や裏切り者の虐殺、拷問は続いた。イラクはもはやサダムの支配する警察国家となっていた。サダムは政敵を次々と抹殺し、バクル大統領に次ぐ、イラクナンバー2の権力を手に入れる。

石油産業に続く壮大な国家建設計画
 国民は既にこの国を支配しているのが、バクルではなくサダムだと気づいていた。サダムはテレビなどにも出演し、頻繁に国民の前に姿をあらわした。そして気前よく最高級のワインを振舞ったり、国民の人気を勝ち取ろうとした。そして実際人気も出始めた。
 サダムはまた、石油の国産化に着手しはじめた。サダムはイラクの近代化を目標としていたので莫大な資金が必要だった。石油はそれらの目標に叶う資金源だった。イラクはサウジアラビアに次ぐ世界第二位の石油埋蔵量を誇るものの、石油産業の利権は外国企業に牛耳られていた。このことはイラクのナショナリストにとって長年の屈辱だった。サダムはこの事態を打開するのにソ連の援助を要請する。バクルもサダムも猛烈な反共主義者だったが、思想と石油は別である。また、ソ連と組めば良質なソ連製兵器が大量に手に入る。当時のイラク軍はお世辞にも強いとはとても言えなかった。軍拡はバース党の最優先課題である。隣国のイランや、イスラエルに対抗する軍事力は絶対必要だった。こうしてイラクとソ連は同盟関係を結び、イラクはソ連のおかげで石油を国有化することに成功した上、兵器もたくさん売ってもらい、仕官をソ連で訓練してもらったりした。だが、ソ連に対し譲歩したところも多かった。まずソ連軍はイラクの空港の使用が認められた。国連決議などでイラクはソ連に従うことを約束した。これは力と引き換えに悪魔と契約したようなもので、まさしくサダムにとっても賭けだった。ソ連という悪魔とサダムは手を組んでしまったのである。ソ連と手を組むのは国家が赤く染まる危険性を意味するのである。それぐらい危険なことなのだ。

 1973年春、イラク軍はクウェートの国境警備所を占拠した。クウェートは元来イラク領であるとする信念に近いものがイラク国民間には存在し、領土復興主義的な動きだった。しかし、ワシントンはこの動きをソ連のペルシャ湾進出の陰謀ではないかと考えた。イラクがソ連と手を組んだことはワシントンの懸念材料だった。結局この事件はソ連にいさめられたイラクが軍を撤退させて終わった。しかし、米英は石油を国有化し、ソ連と手を組んだイラクとサダムに強く関心を持つこととなった。

 イラクの石油産業国有化を成し遂げたのは、ひとえにサダムの天才的な外交手腕が成し遂げた快挙だった。イラクは潤い、ソ連製の最新兵器をどんどん輸入した。国民の生活水準も目に見えて上がってきた。国民は長年待ち焦がれた、国民の生活によく配慮してくれる政権が誕生したと思った。事実、学校や病院、あらゆるインフラが整備された。サダムはこれらのプロジェクト一つ一つに深く関与し、リーダーシップを発揮した。そして、外国の企業の援助を積極的に受け入れた。国民の生活水準は確実に上がった。ある時には僻地の村に送電施設とテレビが無料で配布された。サダムの壮大な国家創設計画は、諸外国に第三世界のサクセスストーリーとして見られた。
 サダムはこれらの公共事業において、博士号を取得した専門家でさえ答えに窮するような質問にも軽く答えた。サダムは恐ろしいほど勤勉な男だった。一つ一つの事業に参加する前に、長時間の予習を欠かさなかった。そしてその勤勉性は確実にサダムのリーダーシップに輪をかけた。

 サダムはこの他にも科学技術の発展に熱意を注いだ。この熱意は周囲のイラク人にも伝染した。サダムは他の石油大国のように技術を輸入するだけということでは満足せず、先進国のように技術立国として発展することを考えていた。「それはエキサイティングなことだった。サダムは確かに恐ろしい男だが、国家再建のチャンスを与えられた我々にとってはそれは望むべくもない素晴らしいことのように思えた」と当時のイラク人は振り返る。サダムはとにかく能力のある者だけを欲した。忠誠心などあって当たり前だった。僅かでも不忠なそぶりを見せれば治安部隊によって粛清された。
 サダムはこの他にも農業改革や教育の普及に尽力した。特に国民の識字率が低いことに不快感を示し、バース党独自の方法で教育を強制した。国民は逆らえば殺されるかもしれないから、熱心に勉強し、識字率は飛躍的に向上した。この政策に対し、ユネスコはクロペスカ賞を授与した。
 このころのサダムはほとんど家には帰らず1日16〜18時間は働いていたと言われる。熱心で勤勉だった。単なる残虐非道な無能者ではなかったようだ。国民は生活の向上が誰のおかげなのかを理解していた。もちろんサダムはその手の宣伝に血道を注いだ。多くの新生児がサダムと名づけられ、若者はサダムの歩き方、服装を真似した。まさしくカリスマとしての人気を独占した。

 サダムは既に国防軍をも手中にし、バクルはもはやお飾りだった。
 そんな中、クルド人との紛争の際、ソ連兵器だけでは心もとないと感じたサダムはフランスと武器売買の取引を結び、最新鋭のミラージュF1戦闘機やガゼールヘリなどを輸入しはじめた。フランスとは石油国有化の際にも世話になっており、イラクとフランスは並々ならぬ強い絆が生まれていた。ジャック・シラクとサダムは親友とさえ言われていたのである。この他にも西ドイツ、ブラジル、イタリア、ベルギー、スペイン、ポルトガル…といった多くの国の兵器を輸入した。

大量破壊兵器
 イラクをその手に握ったサダムが目指すは世界だった。アラブ民族主義を掲げ、中東でアメリカやソ連に負けない超大国になることが目標だった。その為には軍事力の増強、特に核兵器、生物化学兵器保有が絶対条件だった。資金は豊富にあった。石油はイラクを世界有数の金持ち大国にしていた。
 農薬の名目でサダムはアメリカのファウルダー社のエンジニアをバグダッドへ招待し、技術援助を受けた。また東ドイツのライプチヒ毒薬研究所の職員と掛け合い、技術援助を受け、着々と化学兵器開発に成功しようとしていた。
 また核兵器も原子力発電の名目で各国から技術援助を受けた。特に盟友フランスはそれに積極的で、石油大国のイラクが原発を持とうとする矛盾を全く無視した。1956年にディモナ研究炉をイスラエルに売ったのもフランスだった。そして今度はまたイスラエルの宿敵、イラクにタンムーズ原子炉を売ったのである。目的はシンプルに金だった。
 またアメリカもマンハッタン計画(広島、長崎型原爆の開発計画)の詳細な資料一式をイラクに寄贈したのである。こうして大国の援助を受けイラクを核兵器を持つ一歩手前まで行くのである。しかし、実際はイスラエルの対外諜報機関モサドの妨害や再処理施設の未完成によって、核兵器を持つことはできなかったとされている。

フセイン大統領
 1979年7月、遂にサダムはイラク共和国大統領に就任した。バクルは表向き体調の悪化を理由に退陣したが、現実にはサダムに脅されてのことだった。形骸と化したバクルに抗う術はなかった。そしてその後サダムに暗殺された。サダムにとってバクルは恩師だったが、このような形で報いたのである。理由は根強くバクルを大統領に復帰する声があったからである。サダムはバクルもバクルを支持する者も容赦なく消しさった。これだけでなく、サダムが大統領就任後は全国規模で粛清が吹き荒れた。。政治家も、官僚も軍人も国民もちょっとでもサダムのやり方に疑問を持った者は例外なく消された。かつては懇意にしていたものも親戚も例外ではなかった。サダムに逆らえる者は誰一人としていなかった。逆らおうとする前に治安部隊がその者を見つけ出し、拷問にかけ殺した。
 しかし理解しがたいことだがサダムは国民に圧倒的な人気があった。と言うよりほとんど畏怖の念に近かった。間違いなくイラクにおける神とはアッラーではなくサダムだった。サダムはどうやれば国民から人気が出るか熟知していた。その見本はナチスのヒトラー以外ありえなかった。党はテレビやラジオを通じて大規模なプロパガンダを絶え間なく行い、大きな効果をあげていた。イラクにおける一党独裁は、もはやサダムの個人崇拝へと変わっていた。

イランイラク戦争
 1980年9月22日、イラクはイランの航空基地を爆撃した。イランイラク戦争の始まりである。
 イランではホメイニ師によるイスラム教革命が勃発し、全てはイスラム教に従うという前近代的な思想がイランを征服した。そしてホメイニはこのイスラム教革命をアラブ中で巻き起こそうと工作していた。その際、イラクのシーア派に呼びかけてサダム政権を転覆しようと画策していた。このようなイデオロギーの輸出はソ連の目指した世界同時革命と全く変わらなかった。彼らは間違いなく中東をあるいは世界をイスラム教原理主義で染め上げることが目的だった。狂信者集団と呼ぶにふさわしかった。
 サダムは政教分離と近代化を成し遂げた今、イスラム原理主義になるなど許せなかったし、それは自らの権力が失われることを意味していた。サダムはこのような理由でイランのホメイニ政権を倒そうとイランに侵攻したのである。大国は皆イラクを支持した。イスラム原理主義の狂気は大国にとっても恐ろしいもので、中東がイスラムに染まれば石油がどうなるかわかったものじゃなかった。

 サダムはこの戦争を電撃戦で2、3週間で終わらせるつもりだったが、イラン軍が精強に抵抗したことと、サダムの軍事的未熟によって苦戦を強いられた。最初の2ヶ月で45000人が戦死した。またサダムはイランの国力を過小評価していた節があり、イラン国民によるクーデターでホメイニ政権がすぐ倒れるだろうとまで思っていた。全くの勘違いで、イラン人の士気は恐ろしく高く、自爆攻撃が相次いだ。イラン政府は自爆者は天国で美女が与えられると教え込み、イランの少年たちはそれを信じ込んで喜んで自爆した。
 例えば、イラク軍の兵士たちに自転車に乗った少年が向かってくる。イラク兵がそれを見てからかうと、少年はいきなり手榴弾を投げ始めたという。イラク兵にとっては全く笑い事ではなかった。
 別の例では、地雷原を子供が手をつないで歩き、その後ろに兵が続くと言う、ゾッとする光景が見られたという。イランはとてつもない人海戦術と自爆攻撃の奨励で戦いを有利に進めた。こんな狂信集団を相手にしてイラク兵にとっては全く不幸なことだった。イラン政府は悪びれることなく前線で自爆させる子供を増やすため、子作りを奨励した。イスラム原理主義のやばさがわかってもらえるだろうか?これが特攻隊と同列に扱われては特攻隊員たちも浮かばれまい。彼らを駆り立てたのはゆるぎない信仰心だった。

 イラク兵の大半はシーア派だった。そしてイラン兵の大半もシーア派だった。よってイラク兵の士気はものすごく低かった。かたやイラン兵は自爆覚悟で突撃してくる。これではいかにソ連製、フランス製の最新兵器を持ってもイラクに勝ち目はなかった。
 戦争は悲惨な消耗戦に突入し、終わりが見えなかった。サダムは停戦したくてしょうがなかった。もはや戦争を続けるメリットなど何一つなかった。 しかしホメイニはサダムを引き摺り下ろすまで一切停戦に応じるつもりはなかった。ホメイニは政教分離を成し遂げたサダムを不信心者として憎んでいた。
 そんな中第6次中東戦争が勃発、パレスチナ解放機構を殲滅すべく不死身のイスラエル軍が侵攻を開始した。そこでサダムは「PLOを援助するためひとまず停戦しよう」とイランに持ちかけた。イランにとってもイラクにとってもイスラエルは憎っくき宿敵だった。しかしホメイニはあくまで停戦を拒否。停戦が不可能と知ったサダムに残された手段は生物化学兵器しかなかった。

 サダムが原爆を完成させていれば間違いなく使用しただろう。長引く戦争で国民の不満は膨張していた。しかもこれを機にサダムを暗殺しようとする者が耐えなかった。それぐらいサダムは追い詰められていた。しかし、サダムの治安部隊は戦時中でも何ら変わることなく任務を遂行していた。
 幸か不幸か原爆開発計画はイスラエルの度重なる妨害によって頓挫していた。しかし、生物化学兵器の研究はほぼ完了していた。その研究にあるドイツ企業が深く関わったとされている。1983年にはタブンやVXガスなどの神経ガスが大量に生産され、備蓄されていった。

 1984年、イラン軍の頑強な抵抗にサダムの我慢も限界を超えた。毒ガスを遂に使ったのである。ソ連製、フランス製、ドイツ製のヘリから密閉容器を投下したのである。防護服などあるわけのないイラン兵は黄色い液体を体中から噴出させ、皮膚をただれさせながら苦しんで死んだ。国連の調査団によってタブンとVXガスが使用されたと報告された。タブンはナチスが開発した毒ガスで、ヒトラーでさえ使わなかった代物である。
 国際社会は驚愕したが、イラクへの援助をやめることはなかった。事実上黙認した。イランとその狂信的な革命警備隊の悪名は世界に知れ渡っていた。西側諸国にとってはイラクはイランのイスラム革命を食い止める防波堤になるだけでなく、ソ連を牽制する存在にすらなりえた。しかもこの戦争はイランが停戦を拒否するから続いてることは誰の目にも明らかだった。更に更にソ連でさえイラクを支援した。イラクのあの共産主義の弾圧でさえも、イランの共産主義弾圧に比べればカワイイものだった。1983年にイランの反ソ運動はピークに達し、始めは不介入の立場をとっていたソ連もこのころバグダッドを援助するようになったのである。アメリカもテロ支援国家の疑いが強かったイラクを支援した。↓はこのころバグダッドを訪れた現ラムズフェルト国防長官である。このころのラムズフェルトを指してアメリカを二枚舌だとなじる声もあるが、この世に二枚舌を持たない国なんて日本だけだ。

米国は武器を供与しないかわりに、偵察衛星によって逐一イラン軍の動きをイラクに伝えた。
これは国際的批判を浴びないための小細工であるが、実際は武器に転用可能な物資をイラクに送った。


 金と兵器と情報がバグダッドに流れ込むようになり、イランイラク戦争は新たな局面を迎えた。イラクは輸入したミサイルでイランの都市という都市を徹底的に爆撃した。無差別都市空爆も徹底的に行った。士気の高かったイラン国民も遂に反政府運動を行うようになり、事態はサダムが望む方向へと向かいつつあった。
 一方前線では一進一退の攻防が続いた。サダムの軍事的未熟によってイラク軍はやはり苦戦していたが、イラン側はそれ以上の犠牲を出していた。しかも再びサダムによる停戦を拒否したためにテヘランが猛烈な空爆に晒され、ホメイニもようやく停戦の意思を見せ始めた。1988年7月18日、遂に8年間に及んだ戦争は終結した。イラクはこの勝利を大々的に報じた。

クウェート侵攻 湾岸戦争へ
 サダムは確かに戦争に勝利した。しかし、イラクは既に破産していた。あらゆる物資が金欠で買えなくなった。国民の生活は困窮した。裏切り者も多数出た。サダムの用心深さは普段でもすごいものだったが、戦争後はますますひどくなり、ほとんど国内隠遁状態だった。バグダッド市内にはいくつも同じようなつくりの大統領宮殿が立ち並び、どこにサダムがいるのか誰もわからなかった。大統領宮殿の警備隊も、今サダムが宮殿にいるのかいないのかわからなかった。サダムは段々奇行が目立つようになってきた。長い隠遁生活で精神的に相当参っていた。サダムは心からは誰も信用しなかったし、周囲の者もサダムには恐怖以外は何も感じていなかった。このころ義理の弟を暗殺し、それが理由で妻サジダとも離婚した。息子のウダイもとんでもない放蕩息子で、サダムの気に障ることばかりした。対照的に次男のクサイは冷静で思慮深く、サダムは長男のウダイよりもクサイに目をかけるようになる。

 イランイラク戦争停戦からわずか2ヶ月で、クルディスタンの65箇所の村が化学兵器による攻撃にさらされた。戦争中はイランと組み、サダムを脅かした宿敵クルド人に決着をつけるつもりだった。5000人が死に、難民は25万人にまで膨れ上がった。当然この虐殺に国際的非難が多く寄せられた。

 非難は浴びたが、イラクは金払いのいい国家として西側諸国の信用を得ていた。そして、各国はしょせん人権より商売を選び、サダムと積極的に取引した。経済制裁も結局行われなかった。しかし、イラクは財政的な荒廃を何とかしなければならなかった。このころサダムは、クウェートとサウジアラビアにイラクの破綻を何とかしろと外交的圧力を強めた。砕けて言えばそちらに借りてる金を帳消しにしてほしいと頼んだ。しかし、クウェートは突っぱねた。
 イラクはクウェートを自国の領土であると言う考えを強く持っており、クウェートが言うことを聞かないことにサダムは腹を立てた。事実、オスマン帝国が崩壊するまでイラクとクウェートは同州に組み込まれていた。それがオスマン帝国崩壊時に英国が勝手にイラクとクウェートに国境線を引いてしまったのである。このことからイラク人にとってクウェートはイラクの一部であると言う強い信念があった。更にクウェートはイラクとの国境沿いで油田を採掘していた。国境沿いの油田はちょっと斜めに掘ればイラクの石油を採掘することになるので禁止になっていた。しかし、クウェートはそれを無視して掘り続けた。しかもOPECで定められた採掘量を無視してかなりの量を違反して採掘していたので、原油の価格が下がり、イラクにとっても経済的に無視できなかった。
 イラクはクウェートに盗掘の取りやめと、借金帳消しを要求し、受け入れられない場合は戦争になると警告した。クウェートは無視した。
 サウジアラビアはサダムに恐怖し、クウェートを説得し続けた。そしてクウェートもようやく要求をのむ覚悟を決めた。しかしサダムはそのころには開戦の決意を固めていた。既にアメリカも説得し終えていた。時の米大統領ブッシュ(父)は「貴国の国境問題に米国は全く関与しない」と事実上のゴーサインを出した。このアメリカの優柔不断が戦争を誘発したと見る見方もある。アメリカはサダムがクウェート全土を制圧するとは考えていなかったのだ。サダムにとって、この戦争は国民の不満を解消し、経済再生の近道になるはずであった。

 1990年8月2日、10万のイラク軍が300両の戦車を引き連れてクウェートに殺到した。クウェート軍1万6千は圧倒的戦力差に完全に駆逐され、7時間で首都が占領された。クウェートの首長たちは国外へ逃亡した。国民も3分の1は国外へ逃亡した。残ったわずかな首長たちはイラク軍の精鋭部隊共和国親衛隊の特殊部隊によって殺害された。
 サダムはこのクウェート侵攻がほとんど国際批判を浴びるとは思っていなかった。やりすぎないようにサウジアラビアに攻め込むのもやめた。しかし、国際非難はすさまじく、各国がイラクとの通称を停止し、緊張が高まった。これはサダムの大誤算だった。アメリカは確かにゴーサインを出したではないか、これは一体どういうことだ。イギリスのサッチャー政権はこの侵略をヒトラーのズテーテン地方侵略に比して絶対融和策をとらないと断言した。国連はイラクに経済制裁、禁輸措置を発動し、アメリカ軍に助力を求めた。ブッシュは「野蛮な侵略を許す気はない」とイラクを厳しく断じた。

 サダムにとっては大誤算だったが、このまま撤兵などできるはずもない。そんなことをすれば国民はますます不満を募らせるだろう。この戦争は国民が支持したものだった。少しでも有利な条件を引き出さないと撤兵など許されなかった。
 西側諸国にとってもこの侵略を許せば、サウジアラビアを含む石油大国が完全にサダムの手に落ちる危険性があったため妥協できなかったし、する必要もなかった。イラクは強くなりすぎていた。当時のイラクは世界第5位の軍事力を保有し、世界で4番目に大きな陸軍を保有していた。特にサダムは自国民に化学兵器を使用する危険な男である。ここで叩いておかないと将来どうなるかわからない。
 サダムは何とか融和策を引き出そうとしたが、国連とアメリカの意志は固く、撤兵しない限り経済封鎖を解く気はなかった。

 アメリカを中心とする多国籍軍の攻撃は1991年1月6日に開始された(砂漠の嵐作戦)。史上類を見ないほどの徹底的な空爆が浴びせられた。原子爆弾の数十倍とも言われる強大な爆撃だった。イラクは世界で6番目に強大な空軍を保有し、防空システムも完璧だったが、それでも多国籍軍の圧倒的な空爆の前に全く太刀打ちできなかった。6週間にわたり、空軍基地、生物化学兵器施設、核開発施設などの戦略施設が破壊された。これらの爆撃は長く、システマチックだった。
 サダムは国民に最大の戦いが始まったと勧告し、地上戦に持ち込めれば必ず勝てると踏んでいた。多国籍軍は人命尊重の軍隊であり、何万人も死ぬような戦いに耐えられる国々ではないと考えており、それは間違っていなかった。しかし、多国籍軍は中々地上戦を挑んでこなかった。地上で戦う能力を徹底的にそぐことが目的だった。バグダッドにも徹底的に空爆が加えられた。
 多国籍軍の地上軍が侵攻するころには、イラク軍7個師団が壊滅しており、戦車もほとんど失われていた。48時間以内にクウェートは解放され、死傷者5万、捕虜15万の被害がでた。戦争は惨敗。100時間で勝敗は決した。
 ブッシュは戦争中、イラク国民に独裁政権を倒すべく立ち上がるべきだと盛んに演説していた。しかし、実際には何の援助もせず、クルド人はアメリカの援助があると信じて蜂起したが、イラク軍に鎮圧され、多数が虐殺された。
 この戦争では多国籍軍の目的はクウェート解放であり、サダム打倒ではなかった。バグダッドまで攻め込む大義がなかった。そして、バグダッドまで攻め込めばイラク軍の抵抗で大きな被害が出ることは間違いなかった。そしてサダム後のイラク新政権の構想が全くできていなかった。スンニ派の政権か、シーア派の政権か、クルド人の政権か。これら複雑に絡み合うイラク内政に巻き込まれるのはまっぴらごめんだったのである。このような理由でサダムはとどめを刺されず生き延びた。
 この戦争で精密爆弾が凄まじい効果を上げ、戦争はまた新しい形を我々に見せ付けた。43個師団あったイラク軍で戦闘力を保有していたのはたった7個だった。サダムにとっては大敗北だった。サダムは経済制裁を解く条件として、大量破壊兵器の放棄、クウェートへの補償を約束させられた。

反乱
 敗戦後、全国で反乱が巻き起こった。スンニ派、シーア派、クルド人がサダムを倒すべく立ち上がった。これはアメリカの援助を期待しての反乱であった。しかし優柔不断なブッシュはこれらの反乱に不介入の立場を取り、事実上見殺しにした。
 そして、サダム政権は西側諸国が想像したよりもはるかに強固で、容易に倒れないことを見せ付けた。南部のバスラの反乱には共和国親衛隊が差し向けられ、女、子供問わず多くが虐殺された。クルド人に化学兵器を使用したケミカルアリーの異名を持つ、アリー・マジドはこう言った。「全員焼き尽くしたと報告できるまで帰ってくるな、焼き尽くすまで帰ってくるんじゃない。」
 北部のクルディスタンでも反乱はあっという間に鎮圧された。ある事例では空軍が白い粉をばら撒いただけでクルド人は大挙して敗走を始めた。化学兵器による恐怖の刻印は絶大で、既にクルド人の戦意は失われていた。
 このようにサダム政権は簡単に倒れるような政権ではなかったのである。

 国連の査察団が多数、入り込んできた。しかし、この時期に行われた査察は諸説あって真実が明らかになっていない。一説ではイラクが組織的に査察を妨害し、大量破壊兵器廃棄は全く進んでいないとする説がある。またある説では1998年に査察団がイラクを去るまでには大量破壊兵器の98パーセントは廃棄させていたと見る説もり、全く真実がわからない。よって省略。前者が本当であれば、アメリカの戦争にも大義がある。後者が本当ならば大義はない。イラクは完全にアメリカにはめられたことになる。

決着
 2003年3月、米英軍はバグダッドへ向かって進軍を開始した。2001年の9.11のテロにサダムが関与したと言う証拠は全くなかったが、テロリストに大量破壊兵器を渡されるのを阻止することが、アメリカの戦争目的だった。ジョージ・ブッシュ(息子)が大統領に就任して以来、ブッシュはイラク攻撃には否定的だった。ビンラディンと関与している決定的な証拠がない。国際的非難は必至だった。しかし、チェイニーやラムズフェルトといったタカ派に担ぎ上げられ、戦争を決意した。
 イラクは長い間の経済制裁で弱りきっていたものの、治安は回復し、サダムは健在だった。しかし、勇猛を誇ったイラク軍もいまやボロボロだった。戦争は一ケ月で終了し、バグダッドは大した抵抗もなく陥落した。イラク軍の精鋭、共和国親衛隊も制空権を奪われた米英軍の精密爆撃によってほとんど抵抗できなかった。サダムは姿を消し、フェダイーン・サダム→という私服のゲリラが戦闘終結宣言後も奇襲を繰り返している。
 また共和国親衛隊の残党も依然いたるところに潜伏して奇襲を続けている。また反米主義のアラブ人義勇兵が多数侵入して米英軍と戦っている。12月、遂にサダムは捕まり、イラク戦争は新たな局面を迎えた。

共和国親衛隊

RPG7を持ってノリノリのアラブ人義勇兵

共和国親衛隊の指導者 クサイ・フセイン 既に戦死。

フェダイーン・サダムの指導者 ウダイ・フセイン 既に戦死

指名手配中のサダム 既に逮捕

捕まった直後のサダム 惨めな姿だ

結局大量破壊兵器は全く見つからず、アルカイダとの関係も否定された挙句、サダム・フセインは新政権によって処刑された。

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