カダフィの野望

カダフィ誕生
 1942年、リビアの首都トリポリの南に広がる砂漠地帯の天幕の中で、ムアマール・カダフィが生まれた。父のアブドゥル・ムハマドは貧しい遊牧民だった。時は第二欧州大戦の真っ最中、ナチスドイツ絶頂期である。リビアはイタリアの植民地だった。野望をむき出しにしたムッソリーニがまずい戦いを続け、援護に砂漠の狐ことロンメル将軍が北アフリカ戦線で大暴れしていたころである。
 大戦後、リビアはフランスが統治、1951年に独立を果たし、イドリス一世が国王に就任する。
 カダフィは1956〜1961年まで従来の宗教的な初等教育を受けた。学生時代から既に後のクーデターの核となる革命集団のリーダー的存在であった。彼は優れた学生だったが、その過激な政治思想のために1961年に学校から追放された。彼はエジプトのナセル大統領の掲げるアラブ民族主義に共鳴して、西側諸国の批判や反政府運動を展開していた。
 1963年、陸軍士官学校に入学。ここでも反体制派の秘密団体を組織した。
 1965年、大学を卒業し、通信将校としてイギリスに軍事訓練のため派遣される。当時の士官学校のイギリス人教官はカダフィのことを、「無礼で不遜で傲慢な男だった」と回想する。それでもイギリスに送られたということはよほど優秀な人間だったに違いない。
 1969年、カダフィは国王のイドリス一世が夏の休暇に出かけている隙に自由将校団を率いてクーデターを敢行。「自由、社会主義、団結」を掲げた。
 カダフィはこの作戦を「エルサレム作戦」と名づけ、トリポリ、ベンガジ、アルハイダの三大都市の放送局、警察署、飛行場などを占拠。クーデターが成功すると自ら革命指導評議会議長としてリビアに君臨した。カダフィ陸軍大尉弱冠27歳。
 カダフィは国名を社会主義人民リビアアラブ国と改名し、独裁統治を始めた。都市名を全てアラビア語に改め、飲酒を禁じた。カダフィはイスラム教による社会主義統治という新しい思想を政権の基盤においた。これはアラブ人のナショナリズムと社会主義と民主主義をブレンドしたものである。
 カダフィ政権のもとで「革命法」が施行され、議会が廃止され、労働者によるストライキが禁止された。カダフィによれば、議会は議会自体の利益を追求するから人民を搾取するものであって、人民が直接に参加する民主主義が行われなければならないというのである。同じ理由で政党も全て解散させられた。商人や企業が利潤を求めるのも人民に対する搾取であるとされ、廃止する方針が打ち出された。この辺はマルクスの使徒と同じ考え方である。彼の求める福祉国家としてのリビアは理想のために外的を暴力で排除する方針を取り、しばしば暗殺者が国外の反政府勢力のもとに送られた。
 また、彼は1973年には毛沢東を模倣し、文化大革命を発動。国民の全生活を律する緑の本を発行し、全国民に学習することを強いた。カダフィはこの緑の本を新しいコーランであるとして、自らを預言者マホメッドの生まれ変わりであると称した。

テロリスト
 カダフィはシオニズムとそれを援助するアメリカを激しく敵視し、テロリストを支援した。特にイスラエルで活動をするPLO(パレスティナ解放機構)への援助や、様々なイスラム過激派テロリストにも支援を行った。ウガンダの暴君イディ・アミンの支援も行った。西側諸国だけでなく、イスラエルに対して穏健なアラブ諸国もカダフィの標的となった。また、フィリピンのミンダナオ島のイスラムゲリラや、北アイルランドにおいてイギリスから独立すべく戦っている北アイルランド革命軍(IRA)にも資金や武器を与えた。このような膨大な資金源はひとえに石油のなせる業であった。
 カダフィは冷戦期にはソ連と組んで積極的にソ連製兵器を購入した。ソ連から「レーニン平和勲章」なるものを送られるほどの気に入られようであった。当然、米国はカダフィを敵視した。
 1986年、リビアの工作員が西ドイツのディスコを爆破して、アメリカ兵2人が死亡、230人が負傷した。このテロはすぐにバックにカダフィがいることがCIAによって突き止められ、時の米大統領レーガンは報復を決意する。この60トンもの爆撃によってカダフィの一歳四ヶ月の末娘が死んでいる。また米国はこの都市に経済制裁も開始した。
 1988年、リビアの工作員がスコットランド上空で、パンナム航空103便を爆破して259人の乗客が死亡。翌年にはやはりリビアの工作員がフランス航空機を爆破して170人が死んだ。これらすべてについて、欧米側からはリビアの関与が指摘されていた。リビア側は関与を否定。これに呼応するようにして88年、リビア側の解説によれば、フランスの諜報機関SDECEによるカダフィの暗殺計画が実行され、最後の段階で露見するというミスを犯し失敗。英国諜報機関M15/M16、CIA、リビア諜報機関等々が、カダフィをめぐって世界各地で小説以上に派手な動きをしていたことがわかっている。しかし全て失敗したようだ。
 そして国連安保理は、リビアに対して航空機爆破事件への捜査協力などを要求したものの、拒否されて、92年、93年に対リビア制裁決議を二件採択。これ以降リビアは国際社会から隔離された状態となって、経済的にも政治的にも逼塞した状況が続くことになる。カダフィは革命製作を改めざるを得なくなる。
 カダフィは国連に経済制裁を解くことを条件に、パンナム103便の遺族に27億ドルを、フランス航空の遺族に3100万ドルの補償金を支払うことを申し出た(フランス航空の乗客の多くは黒人だったので安い)。それと共に経済の一部を自由化し、アメリカの石油会社を呼び戻そうとしていたようだ。

折れた牙
 カダフィは独裁者の例に漏れず反体制派を厳しく弾圧してきたため有力な敵がいない。アラブ諸国の独裁者の中では最も長く政権に留まっている男である。しかし、近年西側に媚びるかのような動きをみせ始めている。
 99年には、航空機爆破事件の犯人を引き渡し、2001年の同時多発テロに対してテロ組織を厳しく断じる声明を出している。もはや老いた独裁者に革命の気概はなく、アフリカのリーダーとして発展する道を模索し始めたようだ。2000年7月、西アフリカのトーゴで開かれたアフリカ統一機構(OAU)サミットは、カダフィ大佐のアフリカ世界への公式復帰祝典に近いようなものとなり、カダフィ自身も5000kmにわたってニジェール、ブルキナファソ、ガーナに立ち寄り、熱い歓迎を受ける。沿道の人々のまさに英雄を迎えるような熱い歓迎ぶりに、カダフィはオープンカー仕立ての白いリムジンから身を乗り出し、こぶしを振り上げて応え続けた。
 このサミットで、ヨーロッパ連合(EU)にならって「アフリカ連合(AU)」の速やかな実現を呼びかけ、2002年7月にそれが実現。彼のアラブ世界離れは決定的なものとなり、いまではアフリカの盟主たらんとして、各地の紛争解決やさまざまの問題にも、さりげない心遣いを見せている。
 2003年の2月から4月にかけて、アルジェリア付近のサハラ砂漠で誘拐されたヨーロッパ人観光客の救出に際しても、表の調整を引き受けたマリの大統領を陰で支えて、リビアが動いている。観光客14人(ドイツ、スイス、オランダ人)がおよそ半年間拘束されて、この8月にマリで解放されたのだが、RFIの報道では、その裏ではリビアの人脈が誘拐グループとの交渉を成立させ、カダフィ大佐の息子が運営するカダフィ財団が、身代金として500万ユーロ(およそ6億円)を支払ったという。

核放棄…敗北
 経済制裁で疲弊し、米軍の空爆で娘を失ってからカダフィはこう思ったに違いない。「あちゃ、こりゃ勝てねえズラ」 テロや破壊兵器で周囲を威嚇するより、経済を自由化し、周辺諸国の技術援助を受けながらみんなで仲良く石油を分け合いましょうという政策を取ったほうが得だとおもったのであろう。カダフィ大佐は極秘のうちに開発を進めていた核兵器の開発を断念し、国際協調の道を選んだ。これはイラクがアメリカにコテンパンにやられたことも拍車を欠ける要因であろうが、カダフィは狂犬としての道を歩んだ過程において西側諸国にイタイ目にあわされ続けて来た。このような結論に至ったのも実に自然なことであろうか。実際、4000万ドルもかけて行っていた核開発計画を断念した。

 リビアの核開発計画に関する新たな情報は、同国の最高指導者、カダフィ大佐の息子、サーディ・カダフィ氏が四日付の英日曜紙サンデー・タイムズとのインタビューで明らかにした。

 同氏はリビアの核開発計画は核兵器製造が目的だったとの認識を示し、巨額の資金を投入し技術を含めた開発計画をパキスタンの科学者から購入していたことを認めた。また、ウラン濃縮のための遠心分離機を含め、核開発に必要な資材を闇市場から入手していたとし、「闇市場のネットワークを通じブローカー、極秘の工場と取引をしていた」と語った。

 資材はマレーシアなどのアジア各国から調達し、部品などは南アフリカの闇市場から購入。リビアは核開発技術の取得に四千万ドルをかけたとしている。

 カダフィ氏はまた、自力での核能力を保持するため、えりすぐった科学者を英国に派遣して訓練させていたことも明かし、「大量破壊兵器の廃棄に合意した米英との歴史的な取引にはリビアの再軍備も含まれ、英国は今後も関与していくことになる」と話した。

産経新聞より抜粋

カダフィ大佐が放棄を確約(共同通信)
【カイロ共同】リビアの最高指導者カダフィ大佐は29日、同国を訪問した国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長と会談し、核兵器を含む大量破壊兵器の放棄を自ら確約した。IAEA査察団のスポークスマンが明らかにした。カダフィ大佐が国際機関トップと直接会談したのは、同国が大量破壊兵器の放棄を宣言した12月19日以降初めて。

@niftyより抜粋

番外編
変人カダフィ君のQ&Aのコーナー

Q:何故カダフィ大佐は大佐なのですか?
A:カダフィはエジプトのナセル大統領を深く尊敬していました。1952年にナセルがエジプト革命を起こした時の階級が陸軍大佐であったため、敬愛するナセルの階級を「オラも名乗っちゃうズラ」ということで、当時陸軍大尉だったカダフィは大佐に昇進し、今でも大佐なのです。他にも民衆に親近感を持たせるため、などの説がありますがそれならば大尉のままでも良かったわけで、ナセルをパクったというのが現在最も有力な説であります。ちなみに国家元首が大佐であるリビアには将軍が存在せず、リビア軍に師団がないという笑える噂がありますが真偽は定かではありません。

Q:カダフィ大佐の息子さんがサッカー選手というのは本当ですか?
A:本当です。日韓ワールドカップ開催の時には銃を持った護衛を引き連れてサーディ・カダフィ氏が日韓を訪問したらしいです。ちなみに銃は経由地で没収されたそうです(笑)。またサーディ氏はリビアでも有力なプロサッカー選手であるらしく、イタリアのペルージャが彼を獲得しました。このことは当時西側に擦り寄ろうとしていたカダフィ大佐にとってイメージアップの戦略の一環であったと言う説が有力です。リビアのナショナルチームの監督は「プレイヤーとしては屑」と証言しています(涙)。

Q:カダフィ大佐の護衛が美女と言うのは本当ですか?
A:本当です。アフリカサミットの時に連れて来た護衛は全員が美女で赤いベレー帽に、目の醒めるような緑色の軍服を着ていたそうです。緑色はイスラム教社会主義の色だそうで、このような理由からリビアの国旗は緑一色なのです。しかし、美女の護衛とは趣味が良すぎます。このような奇行は周囲のアラブ国のひんしゅくを買っているそうです。

社会主義人民リビア・アラブ国の国旗

2011年、アラブの春と呼ばれた民主革命の連鎖によりリビアでも民衆が蜂起。長い内戦の末、カダフィも捕らえられ処刑された。

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