スターリン
STALIN


1879年、グルジアで靴屋の息子として生まれる。スターリンというのは「鋼の人」を意味するペンネームである。本名はヨシフ・ビサリオノビチ・ジュガシヴィリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)。非常に貧しい家庭だったが、母親は彼のために苦心して金を貯め、学校に通わせる。ヨシフはロシア語で優秀な成績を収め、15歳の時に聖職者見習いとしてティフリス神学校に通い始める。無神論の共産主義の大ボスが神学校に通っていたというのは皮肉である。

ヨシフは神学校に通いながらも、ロシア正教に対し否定的な本を読み漁り、既に宗教に対し疑念を持っていたことを伺わせる。特に彼は学校の先輩や組織そのものに強い憎しみを持っていたようである。彼は共産主義的なグループと接触を取るようになり、そのために授業にも出なくなった。学校側はヨシフを追放した。

その数年後、ヨシフは過激な社会主義者としてストライキや秘密会議、銀行襲撃なども行った。1912年までに7回投獄され、2回シベリアに流刑され、そのたび脱獄した。そして、やがて最も攻撃的で結束力のあるボルシェビキ中央委員会に入会する。1917年にロシア革命が起こり、レーニン率いる「ソビエト」は新政府を樹立した。1922年にレーニンが病気で倒れると、革命で重要な役割を果たしたヨシフが後を継ぐのである。レーニンとスターリンは政策上でいくつかの相違が見られ、ヨシフは自分の政策を押し通すために、レーニン派の党員を排除するために動き出すのである。例えばそれはトロツキーやブハーリンなどであった。

↑トロツキー。新政権で国防省に就任し、レーニンとは異なり社会主義を全世界に広めようと画策した。スターリンは一国社会主義を押し通すためにこのトロツキーと対立するのである。

トロツキー
1924年、ヨシフは政敵トロツキーと対立していた。トロツキーはソビエト連邦が単独で生き残ることは不可能であるとし、資本主義国と対抗するには積極的に共産主義を周囲の国々に広めることが肝要であるとする理論を展開した。これに対しヨシフは、周囲の国々に資金を費やすよりも自国の経済発展に尽力すべしとするトロツキーとは真逆の理論を展開した。

ソ連は強力な軍事力と世界恐慌の影響を受けない経済発展により、資本主義諸国の攻撃を受けることはなかったため、トロツキーの理論はあまり党員に人気がなかった。更に1919年に設立した共産主義国際組織コミンテルン(共産主義を世界に広めようとするスパイ組織)の謀略活動はどれ一つとして成功していなかった。トロツキーは自らの理論の欠陥を償うため、1925年に辞任した。

ヨシフはトロツキーを追い出すためにブハーリンなどの右翼と手を組んだ。右翼の支援によって、トロツキーは常に政治局で苦しい立場に立たされた。計画的な政治的妨害、野次を受けた。この結果、1925年にはトロツキーやそのシンパは議会から追い出され、ヨシフの立場は強まった。

次にヨシフが狙いを定めたのはそのブハーリンで、その時にはヨシフの権力は揺るぎないものになっており、ブハーリンをはじめとした右翼は辞任せざるをえなくなった。こうしてヨシフはソビエトで独裁的な権力を握るに至るのである。

トロツキーは追放された後、トルコ、フランス、メキシコと転々とするが、ソビエトではトロツキーの写真や刊行物、名前が次々に削除され、トロツキーの支持者は逮捕されて、多くは処刑された。1940年にはNKVD(ソビエト秘密警察)がトロツキーを暗殺した。

トロツキー排除後は、ヨシフによる独裁的な国作りが始まり、唯一つの共産主義国家として繁栄するための第二の革命が始まるのである。そのための第一歩は圧倒的多数だった農奴を労働力として経済発展を果たすこと、そのために重工業を発展させること、それがソビエト連邦の反映につながるとヨシフは信じた。

1929年時点で、ロシアの石炭、鉄鋼の生産力は、はるかに狭い国であるフランスやドイツよりも劣るものであり、土地開発の余地が十分にあった。

また、当時の原始的な農業から集団農業化に切り替えることによって、食糧の大幅な増産を見込めるとして、コルホーズを導入し、様々な機械を導入して近代的な農業を目指した。しかし、社会主義の性質から、過剰利益は全て政府に吸収され都市の労働者対策に使われた。このため農民たちは自らの耕地で利益を得ることができず、飢饉の際にも容赦なく税金をとられるので29〜33年の間に500万人が餓死し、体制に疑問を唱えた無数の農民たちは殺されたり追放された。

大粛清
スターリンは全体主義の下で経済も統制しようとしたが、彼の施した政策の数々は結果的には大失敗をもたらし、公然とスターリンの政策に疑問を投げかける者も現れた。だが、彼は反対論者に一切の容赦をしなかった。1934年大粛清として世に知られる悪名高い虐殺が始まった。スターリンは政敵や批評家などの知識人、反対論者を片っ端から強制収容所に叩き込み、虐殺した。無罪の者も「見せしめ」として膨大な数が虐殺された。粛清は軍にもおよび、陸海空軍の最高司令官、幹部、将軍など、ソビエトの頭脳たちが次々殺された。このため軍は著しく弱体化したが、スターリンは容赦しなかった。この容赦ない粛清により、スターリンに立ち向かえるものはいなくなり、国民も圧倒的恐怖に支配されスターリンに歯向かうなどというのは考えることさえはばかられた。この粛清はスターリンの独裁体制を強化した一方で、産業、経済、軍は徹底的に破壊され、ソビエトは大打撃を受ける。そして1941年、ナチスドイツによるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が始まるのである。

ヒトラーとスターリン
1920〜40年代にかけて、ソ連とドイツは革命の真っ最中であった。ドイツでは帝政が終わり、ワイマール共和国が世界でも先進的な民主主義思想を打ちたてたが、失業率は深刻で、民衆は民主主義に対して絶望していた。とにかく誰か何とかしてくれ〜という時に現れた救世主がご存知アドルフ・ヒトラーである。

アドルフ・ヒトラー。ヨシフ・スターリンの宿敵である。

ヒトラーは1933年にドイツを手中にいれ、1935年に再軍備宣言をする。そしてその4年後にはポーランドを攻撃するのである。どのようにしてこんな短期間で軍備を増強したのか?特に空軍は編成後たったの4年であれほどの量をそろえるのはほとんど不可能に思える。

ドイツは再軍備宣言をする以前から、ラパロ条約(1922)によってソ連と秘密裏に貿易を行い、軍事を強化していったのである。民主主義政権にしろ、国家社会主義政権にしろ、共産主義とは不倶戴天の敵である。しかし、ドイツはヴェルサイユ条約によって過酷な賠償金を課せられ、土地を奪われ、軍備を制限されていた(例えば陸軍は10万人まで、海軍はイギリスとの海軍条約によって制限され、空軍は保有を禁じられた)。要するにいじめられていたのである。

ソ連はソ連で、資本主義国のど真ん中に生まれた共産主義国家として、いじめられていた。このように国際的孤立を深めていたのは両国とも同じであり、ドイツもソ連もお互いに依存するようになるのである。これはスターリンを人類の宿敵と罵倒するヒトラーでさえも再軍備にソ連の力は必要で、1935年に再軍備宣言をするころには、ソ連の長年の助力により強力な軍事力を保有するに至るのである。

そして、1941年、ポーランド侵攻直前にソ連はドイツと不可侵条約を結び、ポーランドを秘密裏に分割、バルト三国、フィンランド侵攻の許可をナチスから得る。

この条約は「敵の敵は味方」の精神を如実に表している好例である。何度も言うが共産主義者と民族主義者はお互いがお互いを人類の敵と称するほどの犬猿の仲である。しかし、ヒトラーはまずはじめにポーランドを叩き、次にソ連を攻めるつもりであった。英仏と戦う気はなかったといわれている。ソ連にとって見れば赤軍の粛清によって、将軍クラスの軍人はほとんど殺されており、軍がまともに機能するはずもなく、宿敵のナチスと戦う力は全くなかった。戦車は多数保有していたが、それを操縦できる者はほとんど殺されていたと言う有様である。よって一時的にナチスと手を組んだだけであり、ヒトラーもスターリンも心の中では全く和解したわけではなく、むしろ当面の敵(ヒトラーはポーランドやフランス。スターリンは国内の反乱分子)をかたずければ、両者の激突は必至であった。

これは考えてみれば全く合理的な手段であり、歴史的に見ても敵と組むのは決して珍しいことではなく、同盟など必要がなくなればすぐ破棄されるものなのである。1941年、ヒトラーは野望を達成すべくあっさりこの独ソ不可侵条約を破棄し、ロシアに侵攻する。

スターリンはこの奇襲をある程度予測はしていただろうが、やはり焦ったであろうと思われる。軍の粛清から立ち直るにはまだ時間が必要だった。しかし、その代償として得た圧倒的な恐怖の呪縛によって、国民は信じられないほどの執念を持って激烈に戦い、ドイツを打ち破ってしまうのである。ソ連の戦死者約2000万人。これは負けたドイツの約5倍である。

有名なスパイゾルゲは、当時日本に潜伏してスパイ活動を行っていた。日本は対米戦争の際に石油を求めて南方へ進出すという南進論と、ドイツと組んでソ連を倒すべしとする北進論とで意見が対立していた。しかし、コミンテルンの陰謀とアメリカの反日政策によって経済封鎖が行われ、俄然南進論が力を増し、「日本が北進することはありえない」とソ連政府に報告された。スターリンはこの報告を受け、日本軍と関東軍に対抗するため、シベリアに駐留させていた戦車親衛軍をドイツ戦にまわすことができ時間を稼ぐことができたのである。そして生産力が回復すると、圧倒的物量でドイツを粉砕しソビエトを勝利に導いた。これをきっかけにさえない貧乏国であったソ連は超大国に向かって突き進むのだ。戦後、連合国はドイツが支配した国々を西と東に分割し、西は資本主義国家に、東は共産主義国家として冷戦が始まるのである。これはソ連が戦争に勝利したことによって、皮肉にもトロツキーの世界同時革命の画策に近い政策を取ることになったことを意味している。

恐怖の終焉
終戦後も粛清は続いた。秘密警察と強制収容所は極めて効率的に機能した。1930〜1950年までに2000万人が虐殺されたと言われているが、あまりに数が多いので詳細な数は不明である。このスターリンが確立した虐殺法は後のポルポト、毛沢東、チャウチェスクなどの共産圏の独裁者によって模倣され、虐殺の連鎖は現代でも金正日が実践し、スターリンの残した負の遺産はあまりにも人類に深い傷を残している続けている。そして共産主義の思想はナチスなどのファシズムとは違い、言論統制がなされていない状態であり、毛沢東やスターリンを信仰する人間がまだ巣食っている中、共産革命が発生する可能性は十分に残されているのである。

1953年スターリンの死と共に恐怖政治は終了した。スターリンの後を告いだニキータ・フルシチョフはスターリンの恐怖政治を批判し、国内のスターリンの銅像や看板を撤去し、スターリンを批判する刊行物の出版を許可した。このことは東欧の共産主義諸国から「灰色分子」として批判されることとなり、共産主義国家も一枚岩ではないことが判明するのである。


おわりに
スターリンは戦争の士気高揚のプロパガンダにロシア民族の結束を促した人間でもあり、見る人によっては彼は民族主義者であるとする説もあります。ボルシェヴィスムもナチズムも兄弟のようなものだと私は思いますので、これはあながち間違いともいえないと思います。事実スターリンは共産主義者であってもコスモポリタンな人物ではなく、国際主義を名目にロシアを強大にした民族主義者だったのではないかと考えられています。ソヴェトさえ国益を無視することなどできず、国家という枠組みから逃れることはできなかった。どのような思想でも、国家、国益を無視できません。そのことを示したある意味では偉大な政治家でした。



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