ナチスドイツの民族政策


アドルフ・ヒトラー

虐殺部隊の編成

狂信的な人種政策の結果、東欧において数百万の無辜の民がSSの保安警察によって斃された。
ナチスの親衛隊(SS)の最高司令官ハインリッヒ・ヒムラーは、秘密文書に以下のような内容の記述を残した。


ヒムラー

ドイツ民族が強者として世界に君臨するために、東方における究極の目標としてポーランド人、白系ロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人、ゴラル人、レムケ人、カシューブ人を可能な限り細分化し、人種的に価値あるもののみを引き上げ、残りは衰退するに任せる。アフリカなどの植民地に大規模に移民させる。抹殺することも可能である。

ヒトラーは東方、つまり広大なロシアを含む東欧地帯において野火の様に広まったボリシェビキ共産圏の打倒、ドイツ民族の生活圏拡大、欧州におけるユダヤ人の根絶を目指して、ロシア侵攻を実行に移した。
緒戦の勝利に気を良くしたヒトラーは、当時急速に権力を拡大させていたナチ党直属の戦闘組織であった親衛隊(SS)に東方の統治権を与え、全権はその司令官ヒムラーに委ねられた。

ヒムラーはヒトラーに心酔していたが、彼は敬愛する総統(ヒトラー)に全権を委ねられたことに狂喜し、東方を自らの理想の実験場にした。
その理想とは太古の昔に農耕民族であったドイツ民族は再びその姿に戻るべきであり、その肥沃な土壌としてロシアの大地は不可欠であった。そして武装農民としてSSが東方に根を下ろし、スラブ民族のドイツへの攻勢からの防波堤にすることが彼の理想だった。

ヒトラーは東方における異人種を殺菌し、民族固有の血を汚染から守り、短期間に抹殺し、大地をドイツ民族のために空白にせねばならないと述べている。1939年8月の演説では、ポーランド人の支配者階級、知的階級、を排除し、国民性、知性、文化を剥奪すると述べている。哀れなポーランド国民は愚鈍に追い込まれ、奴隷として扱われ、ただひたすらにドイツ民族のために生産し続けることを義務とされたのである。
ヒトラーはポーランドの知的階級の抹殺指令をSSに委任し、国防軍の将軍には介入する権利はないとした。彼はヒムラーにポーランドの上部組織(知的階級者や政府関係者や指導的な立場にあるものたち)を抹殺するための特別行動隊(Einsatzgruppe アインザッツグルッペン)の組織を指令した。
以後、保安警察(Sipo)の特別行動隊はナチスの領土が拡大するたびにその邪悪な牙を露にした。オーストリア併合時には、RSHA(帝国公安本部)の長官ラインハルト・ハイドリッヒの特務部隊(ゾンデルコマンド)が一部隊を引き連れて同じ目的で牙をむき、チェコスロヴァキア崩壊の時には特別行動隊が同じ目的で進駐した。


ハイドリヒ

特別行動隊は保安警察と親衛隊保安諜報部(SD RSHAの情報機関)の機械化戦闘部隊として、公安、防諜任務に当たる強権的な警察組織だった。彼らは一定の目標を達成すると再び現地のゲシュタポ(Gestapo RSHA管轄下の秘密国家警察。反政府運動家やユダヤ人、コミュニストを摘発し、強制収容所に送った)の支署やSDの地区司令部に配属され、平常任務に就くのであった。・・・

特別行動隊はRSHAの管理下に置かれ、ハイドリヒはポーランドで活動する特別行動隊を5つ編成した。彼らは親衛隊戦闘部隊(SS-VT)(武装親衛隊 waffen-SSの前身 準軍事組織として陸軍の管轄下にあった)の褐色の野戦服に身を包み、ポーランド侵攻作戦の主力となる陸軍の各軍につき特別行動隊が配置され、その特別行動隊は120〜150名から成る特別行動中隊4つにわけられ、陸軍の後方で必要な任務を遂行していた。特別行動隊はRSHAの管轄化にあったが、現実には陸軍の指揮下でともに行動していた。
ハイドリヒとヒムラーは国防軍の妨害を恐れて、彼らの殺戮戦闘部隊の真の目的を秘匿し、後方の防諜、公安任務と説明していたが、その秘匿は困難を極めた。もし秘密が明るみに出れば血に飢えた名誉なき殺戮者の汚名を浴びることになるし、総統の信頼も裏切ることになる。彼らは深刻なディレンマに陥った。ハイドリヒは特別行動隊の任務が無規律な略奪や粗野な虐殺と陸軍に思われることに対して不満をつづっている。
しかし二人の秘匿もむなしく、特別行動隊の真の目的は国防軍の知るところとなった。国防軍防諜部(国防軍の情報機関)の調査でSS将校が日に200人のポーランド人を裁判なしで射殺していることを突き止め、OKW(国防軍総司令部)に報告した。しかしOKWの総長カイテルは大して気にも留めず、総統の意思ならばやむを得ないという見解を示したにとどまった。このため、陸軍はSSの凶行に対して退屈な傍観者に甘んじるしかなかった。「現存するポーランドの指導階級は根絶し、その志を受け継ぐ世代も適当な猶予を置いて抹殺すること」という総統命令に従って特別行動中隊は必要な任務を確実に遂行した。

ポーランドの落日

ドイツ的な几帳面さで、全てのポーランド人民のリストが作成され(シンドラーのリストならぬハイドリヒのリストとでも言うべきか)、教師、医者、官吏、聖職者、地主、商人・・ポーランドのエリートたちは確実に数を減らしていった。ポーランドを侵攻してからわずか一ヶ月で数万人の人々が特別行動中隊によって瞬く間に斃された。1939年9月27日、ハイドリヒは「占領地域のポーランド上層階級はいまやわずか3パーセントだ」と発表した。
これら殺戮チームが冷徹に無機質に確実にポーランド上層階級を絶滅させようとしていた時、無秩序に暴れる一団があった。それは開戦と同時にポーランド人民からリンチを受けた少数派ポーランド系ゲルマン人の自衛軍だった。彼らの復讐は残虐を極め、ハイドリヒでさえ眉をひそめた(その非人間性というよりも無規律さに対してという意味だが)。しかしヒムラーにとっての関心事は「処理」されたポーランド人の数だけであった。

陸軍は占領したポーランドにおける軍政を任されていた。ポーランド人民に対して「敵とはみなさず法を尊重する」と宣言し、保安と秩序の維持に努めていたが、特別行動隊の残忍なふるまいは陸軍の努力を無にするものであった。陸軍はRSHA(帝国公安本部)に即座に虐殺行為をやめるように抗議した。ヒムラーは不承不承にこれを認めたが、ヒトラーは自らの考えに陸軍が邪魔になったと感じると電光石火の勢いでポーランドの統治権を陸軍から剥奪し、SSに与えた。このヒトラーの命令に陸軍は憤慨するかと思われたが、虐殺の責任を免れた、と前向きに喜ぶ風潮の方が強い有様だった。SSに抵抗した陸軍将校は即座にヒトラーによって解任された。SSの暴虐も総統というバックブレーンがいなければ不可能だった。ヒトラーはOKW(国防軍総司令部)総長カイテルにポーランド政策の方針を説明した。曰く「人種闘争の激化はいかなる拘束も許さない。ポーランドのインテリゲンツィアが再び立ち上がることを防止するべく、ユダヤ人、ポーランド人、その他の賤民は帝国領土から抹殺する


ロシアの運命

東欧におけるドイツ軍の作戦地域の統治権は全てヒムラーとその親衛隊に委ねられた。ヒトラーはボルシェヴィズムをユダヤ思想を具現化したものだと信じていたので、ユダヤ人同様、ボルシェビキとその指導者は抹殺すべきだと考えており、そのようにヒムラーに命令した。ヒムラーは総統命令を忠実に実行に移した。当初はソヴィエトのユダヤ人の指導者層に限った抹殺計画を画策していたが、次第に全ての赤軍やインテリゲンツィア、そして全てのユダヤ人を抹殺するようにと変化していった。ハイドリヒはポーランドの時と同様に特別行動隊(アインザッツグルッペン)とSDの戦闘部隊を組織し、秘密野戦警察(GFP ゲハイムフェルトポリツァイ)と共にこの呪われた任務を実行に移そうとしていた。現実に作戦地帯で主力を担っていた陸軍はこの呪われた任務をハイドリヒの殺戮部隊に全部任せられることに安堵して抗議一つしなかった。総統命令では陸軍も自らの手を汚してユダヤ人を殺戮せねばならなかったのだが、特別行動隊に無制限の権力行使を許すことによって、自らの手を汚すまいとするのみだった。

ハイドリヒは陸軍に特別行動隊の真の目的を秘匿し、後方における反独活動の撃滅、危険人物のリスト化、防諜任務と説明していた。特別行動隊の各部隊長にも「ロシアにおいて治安を保持する」とだけ説明した。各部隊長はハイドリヒに弱みを握られていたり、彼に取り入ることによってRSHA(帝国公安本部)における権力を強めようという下心があるものたちばかりであった。特別行動隊の隊員たちも奇妙な人種の集合体であった。ハイドリヒが全国のSSや警察(ハイドリヒは警察大将でもある)から知的職業人を中心に選んだからである。それらは弁護士、医師、牧師、学者、政府の役人、オペラ歌手までいた。ハイドリヒはこのユダヤ人、共産党員の撃破に強い執念を持って、熱意を持ってこの殺戮部隊を組織しようとしたが、周囲を見渡しても彼と同様に熱意を持っているものはいなかった。ハイドリヒは業を煮やしてゲシュタポ、刑事警察、SDから必要な人材をかき集めた。ベルリンの都市防衛警察のある大隊は解体されて特別行動隊に振り分けられた。武装親衛隊(SSの野戦部隊)も募兵の対象となった。こうしてハイドリヒは1941年の5月、ロシアに侵攻する一ヶ月前までに3000人を集めることに成功した。そして大隊規模のA〜Dの4つの特別行動隊を組織した。


ロシア侵攻、バルバロッサ作戦は陸兵170個師団、3つの巨大な軍集団が主力にすえられ、広大なロシアに攻め入った。

特別行動隊Aは北方軍集団についてレーニングラードに向けて進撃、特別行動隊Bは中央軍集団についてバルト諸国、ウクライナ、特別行動隊Cは南方軍集団の攻勢地域の北部、西部、東部を担当し、特別行動隊Dは南部を担当した。
特別行動隊Aは990人にして最多、特別行動隊Dは550人で最小だった。各部隊はゲシュタポやSD、警察、武装親衛隊、外国人補充兵などで組織されていた。各部隊は70〜120人からなる特別行動中隊(アインザッツコマンド)や特務部隊(ゾンデルコマンド)を有しており、各軍について行動していた。彼らは5月の時点でハイドリヒの命令で特別な警察学校に送られ、ユダヤ人撃滅を徹底的に教育された。ハイドリヒは特別行動隊3000名を集めたパレードの後の訓示でこう言ったという。「東方のボルシェビキはユダヤ主義の根源である。総統の意思によってあらゆる手続きを省略して処理されるべきである。

赤い宴の始まり

特別行動隊は機械化された戦闘部隊だった。特別行動隊の中には陸軍と共に都市の攻略に参加したり、最前線で戦車部隊の後について攻撃に参加する部隊もあった。作戦目標であるユダヤ人の90パーセントはソヴィエトの都市部に在住していると目されていた。特別行動隊が都市に侵入するとたちまち数千数万のユダヤ人、共産党員が彼らの毒牙にかかって斃された。ハイドリヒの突撃隊は冷酷に残忍に確実に任務を遂行した。そしてヒムラーは占領地の各軍区に彼の代弁者であるHSSPF(警察高級指揮官)を設置し、HSSPFの保安警察隊が特別行動隊の通った後を文字通り「地ならし」した。HSSPFの手にかかった犠牲者は一説ではアインザッツコマンドにも劣らない数だった。各特別行動隊から冷たい紋切り型の報告書が続々と届けられた。
特別行動隊Dの報告書153号「作戦地域のユダヤ人は全て処理された。総計は79276人となる
同じく特別行動隊Cの報告書17号「帝国公安本部の指示により、白ロシア(ベラルーシ)における党、国家の指導者階級の絶滅は完了した。同地域のユダヤ人にも同じ処置を施した
同じくCの報告書「特別行動中隊4aによって成人ユダヤ人1107名が、在郷ウクライナ軍によってユダヤ人青年661名が処刑された。したがって9月6日現在、特別行動中隊4aが処置したユダヤ人の合計は11328人となった
特別行動中隊6、「残る3万人のうち、1万人の処刑が完了した
特別行動隊D、「この報告期限までに2010名を射殺した
特別行動中隊8、「ユダヤ人113人を処分した
特別行動中隊4a、「全部で女子供を含むユダヤ人537名を逮捕し、処刑した

特別行動隊の死の影は野火のように広がった。ドイツ軍がロシア領土に深く攻め入るに従い、犠牲者は増えていった。このアインザッツグルッペンの恐怖の噂は少しずつ漏洩していき、ユダヤ人はドイツ軍から逃げ惑い、ついには「最終的解決(つまりユダヤ人の根絶)」は不可能だとまで言われた。ある特別行動中隊の報告書には、「ユダヤ人逃亡者や物見高いドイツ兵によって噂が広まって、我々の任務は著しく困難になっている」と書かれている。

特別行動隊はユダヤ人をまとめて一網打尽にする方法を思索した。例えばユダヤ人住民は人口調査記録と称して一箇所に集められ、34000人が衣服や貴重品を略奪された後、処刑された。また、キエフのアインザッツグルッペンの報告書には「移住を知らせるポスターで人々を誘導した。当初は5〜6000人を見込んでいたが予想に反して3万人以上が集まった。彼らは巧妙なシステムによって処刑される直前まで移住を信じ込んでいた

しかし、このような紋切り型の報告書では彼ら殺戮チームの凶暴性はいまいち伝わってこない。ここではいくつか殺戮のエピソードを紹介しよう。これらの証言を全て信じるかどうかは貴方次第であるが・・。

あるSS隊員の述懐
ロシアのある村では特別行動隊の接近を人づてに聞いて住民がいっせいに避難した。部隊が村に突入した時に表通りを歩いていたのは赤子を抱いた婦人一人だった。
隊員がユダヤ人の場所を問いただしたが、彼女は返答を拒否した。隊員は婦人から赤ん坊を取り上げ足をつかんで頭をドアにたたきつけた。それはタイヤが破裂するような音だった。

第528歩兵連隊の将校の証言
銃声が聞こえたので行ってみると、深い穴の中に無数のユダヤ人老若男女の死体が折り重なるように積み重ねられていた。一番上の老人がきれぎれに息をして苦しそうだった。
私は警官の一人に彼にとどめをさすように言うと、彼は笑ってこう答えた。「もう腹に7発も撃ち込みました。そろそろくたばるでしょう」

ドイツ軍占領下の人々の子供のころの記憶

あるソ連人の証言
僕たちの村が焼かれたのは1943年だった。その日僕たちはジャガイモを掘っていた。隣のワーシリィは第1次大戦に行っていたのでドイツ語ができた。
「おれが行ってドイツ人に村を焼かないように頼んでこよう」こう言って出かけていったがワーシリィ本人が焼き殺されてしまった。

あるソ連人の証言A
ドイツ軍がやってきた様子はなぜか覚えてません。覚えている限りではもういたんです。前からいて、女、子供、老人を村から追い出したんです。
機関銃を後ろから突きつけられて「パルチザンはどこにいるのか言え」と命じるんです。皆黙ってました。すると奴らは3人に一人ずつ連れ出しては銃殺したんです。
男が2人、女が2人、子供が2人。そうして行ってしまいました。
・・・
パルチザンの家族の人が連れてこられました。みんなの目の前で首を落とされました。

あるソ連人の証言B
僕たちから数歩離れて機関銃がすえられ、そのそばに親衛隊の隊員が2人腰掛け、なにかのんきにおしゃべりをはじめ、一度など笑い声を上げたりしていた。
若い将校が近寄ってきてこう言った。通訳が
「将校殿はパルチザンの仲間の居場所を知りたがっています。黙っていれば全員射殺する」そしてこう言った。「3分待つ。そして銃殺だ」
皆お互いにひしと身を寄せ合った。・・兵士が遊底を下げて弾をいれ、機関銃を構えるのが見えた。・・前の方にいた人達から14人が選び出され、スコップを渡された。
・・3人ずつ銃殺された。穴のふちに立たされ、至近距離で撃たれる。そして穴に埋められた。僕たちは突っ立ってみていた。土をかぶせ、長靴で踏み均すのを。

殺されたものを掘り出して埋葬することは20日たってやっと許された。その時初めて女たちが泣きわめきはじめた。村中が泣き叫んだ・・。

あるソ連人の証言C
お母さんはパルチザンを夫にもつほかの女性2人と一緒に連れて行かれた。その翌日3人とも村はずれで雪の中に倒れているのが見つかった。お母さんはなぜか顔をめがけて撃たれていた。僕はおじいちゃんにしつこく聞いた。「どうしてドイツ軍は顔に向けて撃ったの?お母さんはあんなにきれいな人だったのに・・」
おじいちゃんが棺を作って、おばあちゃんは泣いていた。僕はそれを見ていた。お母さんは埋葬されたのに僕はお母さんを待っていた。
長いこと、もうお母さんはいないのだということを受け入れられなかった。お母さんは何も悪いことをしていなくて、ただじっと、刺繍をしていただけなのに。
それを殺してしまうなんてどうしても理解できなかった。

あるソ連人の証言D
「おまえらロシアの豚どもにはいいことがある」
こう言われて強制収容所に連れて行かれた。わらの上に子供たちが座っていて、その上にしらみがはいまわっていた。わらは電気の通った有刺鉄線の向こうに広がる野良から持ってくるのだ。毎朝鉄の門がガチャガチャ鳴って笑いながら将校と綺麗な女の人が入ってきた。女の人はロシア語で
「おかゆを食べたい子、急いで2列に。食べられるところに連れてってあげる・・」2人はふざけて笑ってた。子供たちは我先にと小突きあい、押しのけあう。
皆、おかゆを食べたいのだ。
「25人だけよ。」女の人は人数を数えなおす。
そんなことが何度か繰り返された。はじめはみんな押しのけあったがだんだん怖くなってきた。おかゆを食べに行った子は誰も帰ってこなかったのだ。

あるソ連人の証言E
おれは見た。捕虜になった人たちの隊列が追い立てられて銃殺されたのを。ドイツ軍の電車が転覆した翌朝に、鉄道で働いていた人達がレールに寝かされて電車に轢かれたのを。
首に黄色い輪をつけた人々が「ユダ!」と怒鳴られて全員撃ち殺されたのを。母親の手から赤ん坊が銃剣でひったくられ、火の中に放り込まれたのを。

あるソ連人の証言F
ラーゲリ(強制収容所)である朝、妹が連れて行かれました。妹は金髪の巻き毛で青い目でした。ドイツ軍は金髪の子供だけ集めて登録していました。
ドイツ兵は妹の頭をなで気に入っていたようでした。妹は朝連れていかれて夕方帰ってくるのですが、日に日にやつれていくんです。お母さんが色々問いただしても妹は何も答えません。
何かで脅したのか、薬を与えられたのか、妹は何も覚えていませんでした。後になって子供たちは血をとられていたのだと知りました。きっとたくさん採られたのでしょう。
数ヶ月たって、妹は死にました。

あるソ連人の証言G
私たちは機関銃を突きつけらて連行され森の空き地に連れて行かれました。・・兄たちが射殺されるのを母と一緒に見ました。
兄は穴の中に蹴落とされました。泣くことは許されず、村に追い戻されました。
私たちは2日間そっと泣いていました。3日目にドイツ人と村の警官がやってきて埋葬していいといいました。
シャベルを持っていって穴を掘りながら、泣きました、警官たちが言います。「泣く奴は撃ち殺す。笑え・・。」笑うよう強制されました。
私ががかがみこむと、警官は近寄ってきて、私が笑っているのか泣いているのか覗き込むんです。
平気で突っ立っていて・・・皆若くてハンサムな男の人達・・その人達がこんなことを命ずるんです。すさまじい恐怖の念にとらえられました。
死人よりも生きた人間の方が怖くなったんです。この若い人達が・・その時から、若い男の人が怖くなりました。ずっと独身です。・・お嫁には行きませんでした。

あるソ連人の証言H
ドイツ軍が家を取り囲んで喚きました。「出て来い!」
お母さんが家を出てドイツ軍の車に乗せられました。3歳のガーリャがお母さんを恋しがってついて行き、一緒に車に乗せられました。・・
おばさんが「お母さんは殺された。あんな姿を見ちゃいけないよ」と言いました。
何年もたってからお母さんは眼をくりぬかれて髪を引きむしられ胸を切り落とされたのだと聞かされました。
小さなガーリャはドイツ軍のシェパードを何匹もけしかけられました。犬たちはガーリャをずたずたにしてくわえてきたそうです。お母さんがまだ生きているうちに。

あるソ連人の証言I
私はどこかに遠のけられた。それからまず子供たちが撃ち殺されるのを見たんです。撃ち殺して親たちがそれを見て苦しむのを観察しているんです。
私の2人の姉と2人の兄が殺されました。子供たちを殺してしまってから親たちに移りました。女の人が乳飲み子を抱いて立っていました。赤ん坊は瓶で水をすすっていました。
奴らはまず瓶を打ち抜いて、次に赤ん坊、その後でお母さんを殺したんです。
私は気が狂ってしまうと思いました・・。

※これら証言の全てに確たる証拠があるわけではないことを付け加えておきます。スターリンが戦争プロパガンダにドイツ人を悪辣に宣伝していたことも事実です。

最終解決作戦について

ドイツ軍のユダヤ民族問題の最終的解決、つまりはユダヤ人の絶滅計画について、様々な映画やドキュメンタリーが作られており、よっぽど無学な者でなければその概要については既知のことと思う。

誰が命令を下したか
これは一般的に、総統アドルフ・ヒトラー以外は考えられないと思われるが、ヒトラーはユダヤ人の絶滅方法や実践的な方策については何も関わっていないとされている。
総統が命令を下し、それをRSHA(帝国公安本部)が全権を委任され、計画、実践したと考えられている。

ナチの反ユダヤ主義は1930年代初頭に根を下ろした。経済恐慌によって失業したものが次々SS(親衛隊)やSA(突撃隊)に流入し、その諸悪の根源がユダヤ人であると徹底的に教育されたのである。
彼らは英国の自然学者ダーウィンの提唱した自然淘汰と生存原理について、国家政策に利用しようと歪曲して取り込んだ。
すなわち優秀な人種が劣等人種を抹殺することは当然の権利とされたのである。そうすることによって人類の価値ある資質は育成され、完成されると。
本来弱者を保護することが目的であった「国家」という共同体が率先して弱者を滅するという矛盾と欺瞞に満ちた狂気の思想である。これは社会主義ダーウィニズムなどと呼ばれる。

経済情勢から生まれた反ユダヤ主義が社会主義ダーウィニズムと結びついてユダヤ憎悪の哲学となった。ユダヤ人は優良人種の敵となり、劣等人種のシンボルとなったのである。
この哲学をナチは血道をあげて宣伝した。ヒムラーはユダヤ人と戦うことは「人類と下等人種の戦い」であり「衛生的問題」であるとまで言ってのけた。

SSはこの哲学を徹底的に教育された。ユダヤ人はこの世の害毒であり、何の役にも立たない存在だ。我が社会からユダヤ人を消滅させることこそ、我々の使命だ・・と。
ではいかにして消滅させるのか?これがナチ党の長年の課題であった。こうして浮かび上がった案が移民の名を借りた強制移住であった。

1939年9月のポーランド侵攻直後から占領地域在住ユダヤ人のゲットーへの囲い込みが始まった。
翌1940年11月には40万人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断され、1942年7月からゲットー住民の強制収容所移送が始まる。
このゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情から既にこの期間に多くの犠牲者が出ている。また、シンティ・ロマ人の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。

1940年6月頃、ドイツのフランスに対する勝利の後、帝國公安本部第W局(ゲシュタポ)B4課(ユダヤ人問題担当)課長の親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、フランスからのマダガスカルの割譲を見越した国家保安本部長ラインハルト・ハイドリヒの命令によってユダヤ人のマダガスカル移住計画を作成したが、「あしか」作戦の失敗によって対英勝利の見込みが失われ、移送のための船舶・航路の確保は絶望的となったためこの計画は廃棄された。これ以降「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移住、さらには移住先での労働を通じた絶滅へと発展した。
この決定に従って全ユダヤ人は、産業にとって無価値なものは移送の後処刑され、労働に耐える者はなるべく過酷な環境で軍需産業の労働力として使用した後に死亡させるという方針がとられることになった。

一方で東部戦線におけるユダヤ人、共産党員の絶滅はヒムラーに委任され、ハイドリヒは特別行動隊を編成したことは上記のとおりである。
1941年末までに50万人のユダヤ人や共産党員などが抹殺され、その中には国防軍が手を下したものもあった。ホロコーストに国防軍が無関係であったという説はまるっきり嘘である。
国防軍が管理していた強制収容所も数多く存在していた。

特別行動隊の「華々しい戦果」とは裏腹に、隊員たちの精神的疲労は相当なものであった。或る隊員は罪悪感にさいなまれ幻覚や幻聴に悩まされ、ついには自殺している。
隊員たちの多くは虐殺にうんざりし、さっさと足を洗いたいと思っていた。
SSの長官であるヒムラーは、隊員の士気低下に配慮し、積極的に視察を行った。しかしミンスクで200人のユダヤ人の処刑に立ち寄った際、あまりに胸の悪くなる光景にショックを受け、あやうく失神するところを部下に見られてしまい、ばつが悪い思いをしたという。
しかし一方で無機質に冷徹にナチのエリート思想の権化と化して機械的に殺戮を続けるような、「悪のエリート」とでも呼ばれるべき部隊も形成されつつあった。
しかし多くの隊員たちはこの残忍な消滅劇に耐えられるような強固な精神力を持っていなかった。
ヒムラーはミンスクでの視察をきっかけに隊員が直接銃殺するのは、精神に負担がかかるから、別の処刑方法を考案するべきだと主張するようになり、こうしてガス殺が候補に挙がった。

しかし各隊長たちはこの案に消極的であった。いかにガスで殺そうともその後に排泄物や汚物にまみれた死体を引き摺り下ろして焼却する作業が残っているからである。
また隊長たちは彼らの部下の精神的負担を救うべく様々な努力を行った。例えばそれは罪悪感の共有であったり、処刑の正当化であったりした。
処刑を軍隊流に取り入れ、隊員の末端に至るまで処刑に関与させた。こうして罪悪感を共有して共に「苦難」を乗り越えようというのである。
またユダヤ人を毒虫、害虫と呼んだり、ナチの生存原理の勉強に没頭したりして、ユダヤ人の抹殺は人類の使命であり、この使命に耐え抜くことができるのは優秀なるゲルマン民族だけだと考えを新たにしたりした。こうして正当化しなければそれはとても実現不可能な過酷な「使命」だった。

250万人と目されたソヴィエト・ユダヤ人のうち、90万人がSS特別行動部隊に抹殺されたころ、東部戦線の雲行きは怪しくなっており、ヒムラーは虐殺の証拠を隠蔽する作業に追われた。これらは「1005分遣隊」という特殊部隊の仕事であった。カウル・ブローベル大佐は部隊を指揮し、集団墓地を掘り返し、焼却し、骨を特製の臼で粉にした。

ロシアでのユダヤ人の運命が決しようとしていたころ、死のガス室の時代が始まろうとしていた。直接射殺する方法はガスに取って代わられた。
1941年12月、この世で最初の殺人工場が実際に使用された。囚人たちはシャワー室と称した部屋に裸になって入り、ガスによって尽く抹殺された。
死体の処理は特別労務班というユダヤ人たちに任された。彼らは2週間の延命と食事の優遇を引き換えに汚い仕事を請け負った。

当初、殺人工場で使用されたガス室としての有蓋トラックはうまく機能せず、RSHA(帝国公安本部)が運用指示書に記載した15分というワンサイクルを遥かにオーバーすることも多々あった。
また犠牲者が生き残っているということも稀ではなかった。この報告を受けたゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーはアドルフ・アイヒマンに現場を視察するように命令を下した。
アイヒマンは視察に訪れ、有蓋車の後ろに回って、まだ間接のしなやかな死体から歯がフライヤーで引き抜かれるのをみて恐慌状態に陥り、逃げ出したという。

有蓋トラックの欠陥は次第に補われていった。
というのも当時同時に進行していたもう一つの絶滅計画、「安楽死」作戦があったからである。
「安楽死」作戦は10万人の精神障害者、生活不遇者を絶滅する計画のことである。ここでは極めて「先進的で」「効率の良い」殺戮法が完成されていた。
帝国公安本部は「安楽死」作戦に関与していた技術者を呼び寄せ、死の殺人工場を建設させた。
こうして1942年新しい絶滅強制収容所が建設された。これは6つのガス室、一日につき15000人の殺戮能力を備えた「優れもの」だった。
続いてソビボール、トレブリンカ、マイダネク・・・etc絶滅収容所が完成し、人類最大の悲劇が歴史に刻まれることとなった。

安楽死作戦では人を静かに効率的に殺すには一酸化炭素が適しているとされていたが、あるSS将校がツィクロンBの使用を考案し、より短時間で確実に殺すことを可能にした。
ツィクロンBは殺虫用の青酸ガスで、缶を空けて振りまくだけで数分で人を殺すことができた。

この手法がとられた収容所としてアウシュビッツが有名である。

一酸化炭素(具体的にはディーゼルエンジンの排気ガス)とツィクロンBの殺傷能力では明らかに後者が上であり、230万人のポーランドユダヤ人の運命はツィクロンBがガス室に採用されてから決した。

300万人のポーランドユダヤ人のうち、230万人がドイツ軍統治下にあった。(残りはソ連統治下)
これらのユダヤ人は既にハイドリヒによってゲットーに収容されていたが、これら、収容されていたユダヤ人は次々とツィクロンBのガス室に送られ、膨大な数が抹殺された。
終戦までその殺戮工場は遺憾なくその性能を発揮し続けた。

SS統治区域における絶滅ユダヤ人のおよその数字(人間の理解を遥かに超える数字であるため、<およそ>)。

ドイツ:250000
スロヴァキア:60000
オランダ・ベルギー・ルクセンブルク:130000
フランス・イタリア:70000
ソヴィエト連邦:900000
ポーランド:2000000〜3000000
ギリシャ:60000
ルーマニア:270000
ハンガリー:300000


これら強制収用の官吏たちの多くは正常人であり、何が行われているかよくわかっていた。彼らは彼らなりに心を痛め、しぶしぶ国家の歯車に身を任せた。
彼らは彼らなりにモラルを持っていた。例えば最終解決作戦の一環としてユダヤ人を殺すのは罪ではないが、恣意的、性的な理由であった場合「非ゲルマン的」として厳しく処罰された。
動機こそが問題とされたのである。動機が正しければ殺戮も正当化されたのである。茶番のような話だが現実の話である。日に何万人も殺されている傍らで、一人二人の「恣意的な殺人」を裁いていたのである。

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以上がナチによる最終解決作戦の大まかな流れである。
人類の悲劇というにはあまりにも規模がでかすぎて実感がわかない。ナチスはユダヤ人だけで500〜600万人殺しており、そこにロマ、同性愛者、精神障害者、共産党員、パルチザン、ロシア人、ポーランド人、その他少数民族を加えれば膨大な数になる。おそらく数百万人とは言わないであろう。
反省も教訓もクソもない。自分で書いててワケがわからなくなるほど規模がでかい話である。ホロコーストには修正論も数多く議論されているので、永遠に人類にとっての謎であり続けることと思う。

例えば最終解決=絶滅と決定されたとされるヴァンゼー会議だが、これはイギリス側の第4次資料であるため立証されていない、あやふやな存在である。これが最終解決の証拠とはとても言えない。
他にも疑問点が数多く存在しているのだが、あったことを立証するよりも、なかったことを立証する方が遥かに難しいということもあって、いまいち理論化されてはいない。
南京大虐殺同様、戦勝国側の誇張やプロパガンダがあったとしても不思議ではないが、それは憶測でしかない。真相は闇の中である。


参考文献:

髑髏の結社・SSの歴史〈上下〉/ハインツヘーネ著/講談社学術文庫
ボタン穴から見た戦争―白ロシアの子供たちの証言/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著/群像社
母さん もう一度会えるまで―あるドイツ少年兵の記録/ヴァルター・ティレマン著/毎日新聞社
ナチ親衛隊知識人の肖像/大野英二/未来社
Wikipedia ホロコースト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88



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