パク・チョンヒ




写真左端

韓国の近代化は日本の歴史と密接に関連している。特に旧大日本帝国陸軍士官学校出身のパクチョンヒの存在なしには語れない。

パクチョンヒ(日本名 高木正雄)は(以下朴)は1917年、日本統治下の朝鮮の山村で生まれた。
彼は幼少期を日本人としてすごし、東郷平八郎や乃木希典の活躍話に胸躍らせる普通の日本のガキだった。

彼は幼いころから軍人に強く憧れていたものの、父親の意向でしぶしぶ教師になる。師範学校で、軍事教練に赴任していた有川圭一関東軍中佐が、差別なく朴を扱ったため、強く感化され以後深い絆で結ばれる。

有川中佐の勧めで朴はまもなく教師を辞め、満州軍官学校へ入学する。当時の日本軍は朝鮮人の入隊を認めていなかったので満州国軍へと入隊することになった。

朴は反日主義者だったが、同時に日本にむざむざ併合された自国の貧弱さにも情けないものを感じていた。朴は多くの朝鮮人が独立独立と叫ぶだけで大して展望を持っていなかったのに対し、今独立しても今度はロシア、イギリス、アメリカに侵略されることをよく知っていた。そこで日本を利用してまずは近代化し、強い軍を持つことが大事だと考えていた。しかし、このころの朝鮮人は朴の考えを理解することができず、彼を「親日派」といって糾弾した。彼は孤独の中、軍人を目指すことを決めた。

軍官学校在学中、日本は中国の便衣隊に苦しんでいた。また1941年には日本は米国とも戦争を始め、精鋭の関東軍も南方作戦へと割かれ、日に日にやせ細っていった。有川大佐も出陣して二度と帰らなかった。朴は満州軍官学校を優秀な成績で卒業し、続いて陸軍士官学校へと進学し、満州軍第8団の中尉として終戦を迎える。

朴は日本が敗れて路頭に迷った過程で、ほんの一時期共産主義に傾倒する。当時日本が敗れたことによってバタバタと独立させられることとなった朝鮮は混沌を極めていた。人材が旧日本軍関係者以外ろくなものがおらず、唯一金日成を英雄と仰ぐ共産主義勢力だけが強い組織力を持っていた。抗日パルチザンとして名をはせた金日成が北朝鮮を建国すると、同じく抗日パルチザンの英雄とされていた李承晩が大統領に就任し、強権的な軍事独裁をしいた。

朝鮮戦争前から米ソの思惑が交錯し、朝鮮半島は北緯38度線付近で分断国家となることが決定した。弱小国家はただ従う以外にとる術はなかった。

朴は韓国の国家警備隊の士官学校に入りなおし卒業。初めて祖国の軍に入ることができた。当時、国家警備隊(韓国軍の前身で日本の警察予備隊のようなもの)では、新参の新任将校が古参の下士官にいじめられるという情けない事件が多数起こっていた。そこで朴は旧日本陸軍士官学校出身という肩書きがきき、さらに満州軍官学校さえ出ていたので、普通より年も食っており、古参よりも年長であり、このいじめを受けることはなかった。それどころか優れた用兵と軍事知識によって隊の尊敬を一身に集め、カリスマとして急速に台頭した。しかし、当時吹き荒れていた赤狩りの最中、共産主義に傾倒していた過去と満州軍人であった過去が問題視され、北朝鮮のスパイとして拘束される。南北朝鮮ともに旧満州軍出身者には容赦がなかった。北朝鮮では家族もろとも死刑である。朴は南朝鮮の共産党に入党していたが、北朝鮮が旧満州軍関係者が生きられる場所でないことを知って共産主義から足を洗っていた。まだ南のほうがましだったのである。当局はそこに目をつけ、優秀な人材であることを認めると、軍に復帰することを認める。

そのころは1948年12月、中国の内乱が共産党の勝利に終わり、スターリンが米国を刺激しないために北朝鮮から一方的に赤軍の撤退を完了させたころである。米側もそれを見て在韓米軍5万を撤退させ、朝鮮半島は緩衝地帯となっていた。李承晩、韓国大統領は在韓米軍撤退にあわて、急遽徴兵制を実施して赤狩りによって弱った国軍の立て直しを図り始めた。しかし、朝鮮人民軍がソ連の援助を受け機関銃、自動小銃、戦車、野砲、爆撃機を多数揃えていたのに対し、韓国軍には戦車1輌すらなかった。明らかにミリタリーバランスは崩れていたのである。しかしアメリカは原子爆弾の破壊力に自信を持っていた。原爆を独占している限り共産軍の南進はありえないと踏んでいた。しかし既にそのころソ連は原爆開発に後半歩というところにまで迫っていた・・・。

1950年6月、北朝鮮軍は遂に南進し、あっという間に朝鮮半島の9割までをも赤化することに成功した。

朝鮮戦争停戦後、朴はアメリカに留学したりして、着々と昇進を続け、遂に第5師団長にまで出世する。こうして1軍の将となった朴は同郷の金圭載大佐を他部隊から引き抜き片腕にした。このころ韓国の国民所得はわずか67ドル。世界最貧国が李承晩政権下で軍備拡張にひた走り、70万のもの軍隊を保有したため、師団は慢性的に資金不足で汚職や横領が蔓延した。朴はこれを最初厳しく取り締まったものの、将兵の薄給をよく知っていたので多少の汚職には目をつぶった。

朴はさらに出世し、少将に昇進すると第1軍参謀長に引き上げられた。彼は軍の情報をその手に握り、軍の将兵の信頼を集めた。

1961年、「軍事革命委員会」の名の下、張都暎(チャン・ドヨン)らとともに軍事クーデターを起こす。反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などが決起の理由とされる。当時の朴の階級・職位は少将、第2野戦軍副司令官であった。政権を奪取した後は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、治安向上や経済改善などを実行に移した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させ、7月3日に至って張都暎を失脚させ自ら軍事政権のトップに立った。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていくことになる。それゆえ、頻繁にデモが起こるようになるが、武力でこれらを押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。

1963年には軍を退役して、正式に大統領候補として立候補する。そして自ら大統領に就任し、独裁色を強めていく。1965年には国民の反対を押し切って日本と国交を正常化する。この過程で朴は国民から「親日派」といって罵倒された。韓国では親日派=売国奴である。
しかし、韓国における感傷的で何の利益もない「反日主義」よりも日本の資本を導入して経済を活性化させ、その後で軍事色を薄めて西欧型民主主義に移行すればいいと考えていた。彼の近代化モデルは明らかに幼いころ育った日本と満州国であった。そのためどうしても「反共」で一致している日本の協力が必要であり、国交正常化は不可欠だった。しかし国民の多くは感傷的な反日主義にとらわれ、朴の主張を理解しなかった。

また朴は中国を倣って核開発を行おうとしたり独自の安全保障を模索する。

内政においては典型的な開発独裁で、国家主導で産業育成をはかるべく重工業に日米から供与された資金を投入した。これによって作られた代表的なものに浦項製鉄所がある。この結果農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。

1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が起こるが、1970年8月15日の大統領演説で、平和共存を提案。1972年7月4日には南北共同声明を発表した。一方で国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁的傾向を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧を行った。

彼はナショナリスト的な観点から朝鮮語から漢字の使用を禁じ、以後ハングル文字だけで表記されるようになった。これは朴が、朝鮮民族の過去の歴史が、被侵略と屈辱と惰弱な女々しいものであると長年感じていたために、属国の象徴である漢字を廃することが必要だと考えたためであった。漢字は明国の属国であったころに朝鮮の支配者階級が使った言葉で、奴隷用の言葉として開発されたのがハングル文字である。当時の支配者は独自の言葉よりもシナの言葉を使う方が先進的でカッコイイと考えており、徹底した属国根性を持っていた。また、当時のライバルであった金日成が政権就任当時から漢字を禁じていたためにこれに倣ったという説もある。漢字の廃止は現在でも韓国内で賛否両論であり、漢字復活の動きもあるそうである。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても去勢するなどし、独裁体制を維持し続けていた朴だったが、1974年8月15日には在日韓国人・文世光に銃撃を受け、夫人の陸英修が死亡。釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された。が、彼の独裁下に於いて実現した漢江の奇跡と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きも近年になって見られ、独裁的でありながら歴代政権の中で潔癖とも言われる彼の治世を懐かしむ声は今でも少なからず存在する。




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