チェチェン紛争

チェチェン自治共和国
面積:2万5千平方キロメートル
人口:約100万人
首都:グロズヌイ
人種:チェチェン人
宗教:イスラム教

 チェチェンは19世紀にロシア帝国に侵略されて以来、ロシアの領土である。ロシアはこのチェチェンを絶対に独立させない構えであり、チェチェンは絶対独立してやると言う気構えである。チェチェン紛争とはチェチェン共和国の独立戦争なのだ。

 1994年、独立を求めるチェチェンに対し、ロシア軍が侵攻。チェチェン人の死者6〜7万人、ロシア兵の死者約2万の大規模な紛争となった。チェチェン武装勢力にはアフガン戦争などで戦った歴戦の勇士たちが多数義勇兵として参加しており、装備も充実し、士気も高かった。ロシア軍はチェチェン武装勢力によるゲリラ戦に苦しむ。
 ロシア政府はこれほどの犠牲を払ってでもチェチェンを独立させたくない理由があった。まず、チェチェン自治区は石油が出る。そしてカスピ海のバクー油田からの石油パイプラインが通っており、ロシアとしても手放せない。チェチェンは石油パイプの通過料を獲得し、政治的立場が強まると共にロシアからの独立の気運が高まったのである。
 更にチェチェン人の反ロ感情は時のソビエト大統領ミハイル・ゴルバチョフの行ったペレストロイカで加速する。ペレストロイカとは簡単に言えば厳格な共産主義制度を緩和するもので、宗教も自由化された。それと同時に流入してきたイスラム原理主義によって反ロシア感情は養われたのである。ロシア正教を放棄し、キリル文字を放棄しラテン文字に変えるなど、脱ロシア化が進んだ。チェチェンのイスラム化に警戒感を示したロシアは1994年チェチェンに侵攻する。第一次チェチェン紛争である。チェチェン側に、イスラム社会から多数の義勇軍が駆けつける中、ロシア軍は大苦戦を強いられた。また非道な都市空爆は国際社会からひんしゅくをかった。
 1996年6月、それでもロシア軍は多数の犠牲を出しつつも首都グロズヌイを制圧、掃討戦に移行した。チェチェン大統領ドゥダエフはこの掃討戦で戦死、96年8月、休戦条約が結ばれた。しかしこの休戦は疲弊したお互いが国力を回復するまでの休憩にすぎず、実際、2001年の5月まで独立問題を先送りすることが取り決められた。このことは事実上のロシア軍の敗北であった。

 停戦後、97年の1月には穏健派のマスハドフが大統領に当選、しかしチェチェン武装勢力のボス、バサエフ司令官は強硬な独立派で、99年8月、バサエフは隣国ダゲスタン共和国の村を占拠し、ロシア軍との戦闘が再開された。折りしもモスクワでチェチェン武装勢力の犯行と思われる爆破事件が頻発し(KGBの陰謀説アリ)、世論は圧倒的に戦争支持、ロシア軍は空爆を開始した。第二次チェチェン紛争の勃発である。

 当時首相になったばかりのロシア、アレクサンドル・プーチンは長く厳しい空爆を容赦なく行った。この空爆は20万人の難民を生み、2000年2月には首都グロズヌイは再度占領され、チェチェン独立の夢は潰えた。
 その後もチェチェン武装勢力によるテロ活動は続き、独立戦争は始まったばかりである。

 


モスクワ劇場占拠で鎮圧に向かうロシア特殊部隊「α」
この作戦で化学兵器が使われ、テロリストほぼ全員と人質140人が死亡した。

 このチェチェン紛争から我々日本人が学ぶことは、ロシア人は領土をただで返してくれることなんて絶対無いということだ。北方領土は流血なくしては絶対に解決されないだろう。


2004年、北オセチアの小学校をチェチェン武装勢力らしきものたちが占拠し、女子供500人以上を残虐の限りを尽くし虐殺、改めてイスラム原理主義の残虐性を世に知らしめた。




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