スーダン内戦

スーダンは20年以上にもわたる激烈な内戦を続けている。
1899年イギリスの支配下にあったスーダンはイギリスの占領政策によって、北部のアラブイスラム民族が優遇され、南部の非イスラム系住民は貧困のまま放置された。このことによって生まれた対立が今も禍根を残し続けている。

1956年、イギリスから独立したスーダンではすぐさま対立が内戦へと激化する。時のニメイリ政権は72年に南部の自治を認め、内戦を終結させたが南部で石油が見つかるやいなや、すぐに南部を冷遇し始める。そして、イスラム法導入と地方自治解体の発表をきっかけに内戦が再開される。南部の非アラブ住民はスーダン人民解放軍(SKLA)を結成してニメイリ政権に対抗した。この激しい内戦は飢餓と相まって100〜200万の犠牲を生むことになる。

85年に失政を繰り返したニメイリ政権は大衆の蜂起によって倒され、マハディ政権が誕生する。これは穏健な文民政権で、南部と和平交渉を続けた。
1989年6月、マハディ政権に反発する軍の一派、バシル率いる「国家救済革命指令評議会」がクーデターを起こし政権を奪取、バシルが大統領となった。政権奪取と同時に、反政府勢力を強硬に弾圧し、内戦は激化、スーダン自身も国際社会から孤立していく。
バシル政権は国民イスラム戦線(NIF)と結託し、強引にイスラム法を推進し、「ジハード」の名の下にSLFAに大攻勢をかける。苦戦を強いられたSLFAはバシル政権に苦しむ多数の勢力とともに国民民主連盟(NDA)を組織し、これに抵抗。戦線はスーダン全土に拡大する。

内戦の間に周辺国による停戦調停も行われたがことごとく失敗。

更に内戦は国際的な広がりも見せ始めた。98年、ケニアとタンザニアの米国大使館同時爆破事件を支援したとして、米国はスーダンの首都ハルツームにある薬品工場を巡航ミサイルで爆撃し、テロ支援国家として牽制している。

2004年末、内戦はスーダン人民解放軍側の勝利で終結。平和統治が期待されたが、たがの外れたアラブ系武装集団によって虐殺は過熱。以前悲劇は繰り返されている。


この内戦にはビンラーディン率いる国際イスラムゲリラも介入していた

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