イスラム原理主義

 

イスラム原理主義は宗教の皮をかぶっているが、極めて思想に近い。イスラム原理主義と国際共産主義には数々の類似点が見られる。ここでいう共産主義とはスターリン型、毛沢東型の社会主義のことではなく、最も過激なトロツキー型社会主義のことである。
毛沢東、スターリンは強大な唯一の社会主義国家を作ろうとしたが、トロツキーは全世界にコミンテルンの力を用いて社会主義を広めて、世界同時革命を目指した。全世界を社会主義化すれば戦争がなくなるとする思想である。そのためにはゲリラ、不正規戦、謀略、陰謀、戦争はどんな卑怯な手段を用いても適切な手段として神聖化された。これに対してイスラム原理主義は、世界を「イスラムの家」「戦争の家」の2つにわけ、「イスラムの家」を防衛するための戦い(ジハード)は世界中のイスラム教徒の義務であるとする思想である。彼らにしてみれば「イスラムの家」とはシャリーア(イスラム法)に忠実な宗教国家を指す。「戦争の家」とはそれ以外の国。アメリカ、日本、中国、ロシア、欧州はもちろん、エジプトやトルコなどある程度政教分離を成し遂げているイスラム教国も含まれている。
これら「戦争の家」の攻勢から「イスラムの家」の身を守るために率先して「戦争の家」を滅ぼすべしとする思想である。

ジャーヒリーヤ論
もともとイスラム教は1400年前に存在した預言者ムハンマドが開いた教えである。それ以前のアラブはアラビア社会と呼ばれる専制社会であり、部族社会であった。これら部族長の偶像を崇拝し、物質的な富を重視する社会だった。預言者ムハンマドはこの社会を「堕落した社会」と断じ、「ジャーヒリーヤ」と表現して真っ向から否定した。これに代わり、社会の成員が唯一神アッラーに帰依し、忠誠を誓う「イスラム社会」の確立を訴えた。預言者ムハンマドはイスラム教の宣教に成功し、部族社会から厳格なイスラム社会の構築に成功した。そのため以後1200年間、アラブ社会はジャーヒリーヤ社会は滅亡したと信じてきた。

しかし問題は20世紀、第2次大戦後現れたサイイド・クトゥブという思想家である。

クトゥブは1906年、エジプトに生まれ、厳格なイスラム教徒として育った。そして後に西洋型教育を受け、アメリカに留学した。そこでクトゥプはアメリカの倫理的、性的な崩壊に目を奪われ、激しく憎むようになった。エジプトに帰国し、過激原理主義組織「ムスリム同胞団」に加入、組織のイデオローグとして急速に台頭した。彼が唱えた理論、「ジャーヒリーヤ論」とは、当時の専制者、ナセル大統領の支配するエジプトは、「イスラムの家」ではなく「戦争の家」、イスラム社会ではなく、アラビア社会である、とし、預言者ムハンマドの憎んだジャーヒリーヤそのものであると断罪し、全イスラム教徒はこれを打倒するべく「ジハード」に立ち上がるのが義務であるとする危険な考え方であった。この思想はエジプト全土に衝撃をもたらした。エジプトがイスラム社会なのか、アラビア社会なのか判定することを迫られたからだ。もし、クトゥブのいうとおり、アラビア社会であるなら、国民はジハードのために決起しなければならなくなる。
ナセルはクトゥブの思想を危険視した。実際、ムスリム同胞団はナセル暗殺を幾度も試みたため大弾圧を受けた。ナセル政権はクトゥブを投獄した末処刑した。クトゥブは「殉教者」として神格化された。

クトゥブのジャーヒリーヤ論は民主主義を憎んだが、これは主権が国民にあることが神に対する背教行為であると考えたからである。クトゥプの唱えるイスラム社会とは法、政治において唯一神アッラーに隷従する社会であり、それ以外はジャーヒリーヤだった。主権は人民にあるのではなく、神にあるのであり、この主権を国民が持つということは神の持つ当然の権利を簒奪しているとみなしたのである。こうしてイスラム国家を自称するエジプトも、独裁者ナセルが主権を握っているとして打倒を呼びかけた。

またクトゥブはジハードに対しても再定義を呼びかけた。ジハードはもともと「精神鍛錬」と「敵に対する攻撃」という2つの意味があるが、普通前者を指すものであった。しかし、クトゥプは後者を重視し、エジプト社会打倒のためのジハードを行うべきだとしたのである。現在存在する過激原理主義組織は思想の原点をクトゥプに求め、テロ攻撃を繰り返しているのである。


カリフ制度とソ連軍のアフガニスタン侵攻
カリフ制度とは預言者ムハンマドの支配するイスラム社会において、ムハンマドの後継者がイスラム社会を統治するべきであるという思想である。カリフ(後継者)制度はオスマン帝国の時代に廃止されるまで脈々と受け継がれてきた制度である。
預言者ムハンマドには男の子供がいなかったため、妻の父であったアブー・バクルがカリフとなった。しかし、もう一人のカリフ候補が存在し、それは預言者の娘婿であったアリーである。彼は敬虔で最も早くイスラム教徒になったひとりであったため、彼を担ぎ上げる人々も少なくなかった。このようにイスラム勢力は二分され、
後にスンニ派(バクルを支持する一派)、シーア派(アリーを支持する一派)と呼ばれる

ソ連に勝ったという自負
このカリフ制度は上述したように、オスマン帝国によって廃止させられた。しかし今は復活した。タリバンである。現カリフは、タリバン指導者オマル師とされている。
1979年ソ連軍がアフガニスタンを侵攻、共産主義傀儡国家を樹立した。アフガニスタン人民民主党の保護が目的である。これを捨てるということはソ連の南下政策の挫折を意味した。不凍港を求める帝政ロシア以来の政策の延長である。これに対し、イスラム社会は憤怒し、多数の義勇兵がアフガニスタンに駆けつけ戦った。この中にはイスラム過激原理主義組織も多数存在し、オサマ・ビン・ラーディンもいた。この戦争は米ソの代理戦争として片付けられる傾向にあるが、興味深い考え方として、米国、ソ連に従わない勢力として過激原理主義組織を独立した勢力としてとらえ、これを
イスラム勢力とソ連の純粋なる全面戦争と捉えている。過激組織は米国の援助を受け入れたが、米国の意思を組んだわけではない。事実、10年の長きにわたるゲリラ戦の結果、侵攻ソ連軍は撤退し、その直後にソ連邦は崩壊してしまった。しかもソ連が滅びた後、アフガニスタンの共産主義政権もじきに崩壊し、その後、完全にイスラム化されたタリバンが政権を握り、タリバン指導者ムハンマド・オマルは自らをカリフとして君臨した。米国の意思が深く関係していればタリバンではなく自由主義政権が生まれたはずである。しかし事実は違った。過激原理主義組織はアフガニスタンを純粋な神の国としてここを拠点とし、厳格なイスラム化を人民に強要した。彼らは超大国であったソ連に勝利し、崩壊させたとまで思っており、アメリカにだって勝てる自信を持っているのである。

国際化していく原理主義過激派
アフガニスタンに義勇兵として参加した過激組織はソ連に勝利した後3つに分かれた。国内残留派、帰国派、更なる闘争派である。ビン・ラーデインはこの最後の分派の代表人物である。
帰国派は各国が送り出したイスラム義勇兵がもと来た国へ帰る一派である。各イスラム国は本来なら英雄として凱旋するはずの彼らを危険視し、取り締まりにかかった。ソ連に勝利した彼らがますます過激になり、武力でシャリーア法復活を目指すことは火を見るより明らかだった。(事実そうなった)取締りを恐れた彼らは結局「聖地」アフガニスタンに逃げ戻った。

更なる闘争派はアフガニスタンと同様な、神の国を増やすことを目指した。彼らの中にはその候補を欧州に求めるものもいた。それがコソヴォとボスニアである。
当時チトーの死によって急速に分割されていったユーゴスラヴィアは各共和国が独立のための闘争を開始していた。その中でもコソヴォとボスニアは最も複雑で陰惨な内戦が繰り広げられた。。クロアチア人と、ムスリム人と、セルビア人勢力による三つ巴の戦いである。ムスリム人とはロシア系民族のイスラム教徒である。過激組織、「イスラム集団」「ジハード団」はコソヴォとボスニアを新しい聖地にすべく活動した。革命は混乱の中で起きる。マルクス主義に通じる伝統である。しかし、ボスニアのイスラム勢力は彼ら過激派を拒絶した。彼らの過激な思想についてゆけなかったとか、アメリカが工作したとかいろんな説があるが、理由はどうあれ、コソヴォとボスニアを聖地にする彼らのもくろみは失敗に終わった。

原理主義勢力と各国の治安部隊はことあるごとに衝突、全世界で多数の死傷者が頻発した。エジプトのナセルの後継者であったサダト大統領もエジプトの原理主義勢力によって暗殺、1997年にはルクソール事件として有名なエジプトの観光地ルクソールで原理主義組織が子供を含む観光客58名を残虐を尽くして殺害、日本人も新婚カップルを含む数名が犠牲になった。この事件に対し、全世界はもちろん各原理主義勢力からも批判の声が上がった。それは観光客をあからさまに標的にしたことと、イスラム教では絶対タブーの死体損壊(タムシールと呼ばれシャリーアでも禁じられている)を行ったからである。(内臓をひきずりだしたり、女性性器をえぐりとったりした) ルクソール事件の首謀団体は自己批判を行い、闘争を停止した。しかしこれは無抵抗の民間人を標的にしたことによる批判ではなく、あくまで死体損壊、シャリーアに触れたことによるものである。事実、ビン・ラーディンは全てのアメリカ人を標的とする闘争を行っている。

ビンラーディン

ビンラーディンはイスラム過激派におけるトロツキーそのものである。彼はイスラム社会樹立を母国サウジアラビアで唱えたことは一度もない。彼の目線は常にグローバルなものだった。
彼はサウジアラビアの資本家の17番目の子供として生を受け、父が死ぬと同時に数億ドルとも言われる遺産を受け継いだ。こうしてビンラーディンは数々の事業を起こし、その利益でイスラム過激派の援助をしている。1979年にはアフガニスタンで侵攻ソ連軍と自らが銃を持って戦っている。彼は盟友ザワヒリとともにイスラム革命全世界波及を目指す国際派の急先鋒なのである。

彼はアフガニスタンに潜伏し、テロを資金的、物質的に援助し続けた。アメリカはナイロビとダルエスサラームの米大使館が同時に爆破され数百名が死傷する事件が起こると、この首謀者をビンラーディンと断定、アフガニスタンの原理主義軍事教練キャンプに79発の巡航ミサイルを撃ち込み暗殺を企てたが失敗した。アメリカ連邦捜査局(FBI)はビンラーディンの首に懸賞金500万ドルを懸けた。
ビンラーディンは自らの組織である「カイーダ(基地)」を編成し、全てのイスラム教徒を統一し、カリフに従う国家を樹立することを目指している。

ビンラーディンはアフガニスタンでソ連に勝利すると一時サウジアラビアに帰国する。するとサウジアラビア当局はビンラーディンの国外出国を禁じた。南イエメンの社会主義政権に対するジハードを企てたからとされる。彼はサウジで説教活動などで新たな場を見出した。ここで彼は、イラクの独裁者サダム・フセインがクウェートに侵攻すると警鐘を鳴らし続けてきた。サウジの王族にも同様の手紙を書いて警戒を呼びかけた。イラク軍が戦車数百輌を率いてクウェートに侵攻したのはその数週間後だったとされる。
ビンラーディンはイラク軍の侵略に憤慨した。世俗主義のサダムフセインはイスラム過激派からは不信人者として憎まれていた。彼も過激派にとってはジャーヒリーヤの支配者だったのである。

ビンラーディンはサウジアラビアのファハド国王にイラク軍撃退のための義勇兵を動員する用意があると申し出た。しかしサウジアラビアはビンラーディンよりもアメリカを中心とした多国籍軍を受け入れた。自分たちよりもキリスト教、ユダヤ教中心の軍隊をイスラムの聖地であるアラビア半島に受け入れたのである。このことは彼にとって衝撃的だった。彼は後に「自分の人生で最も衝撃的な瞬間だった」と述べ、サウジアラビア政府も彼にとって敵になった。

彼は1992年にひそかにサウジアラビアを出国し、スーダンの原理主義組織を支援した。1996年にはサウジアラビア当局やアメリカの手の届かない聖地アフガニスタンに戻った。そしてそこからサウジアラビアに駐留していた米軍に対し、あらゆる場面で殺害するよう呼びかけた。これは後に「ジハード宣言」と呼ばれた。米軍の駐留はサウジ政府の要請によるものだったが彼はこれを「異教徒により聖地の蹂躙」と捉えた。アメリカ兵は女性兵士が肌をあらわにうろうろするというイスラム教徒にとっては最もやってはいけないことやってしまい、過激主義者の怒りを買った。こうして過激組織が終結して一つの巨大な集団「世界イスラム戦線」を組織、はじめて国境をまたにかけた強大な国際組織が生まれた。彼らは湾岸戦争後もサウジに駐留する5000名の米軍を指して無辜のイスラム教徒が危険にさらされているといい、これを「あらゆる場所であらゆる時に殺害して財産を奪うことは全てのムスリムの個人的義務だ」と呼びかけた。もはやテロの標的は米軍兵士だけではなく、あらゆる民間人も含むアメリカ人となった。

最後に

2000年、米駆逐艦コールが自爆テロによって爆破され米兵17名が死亡、2001年には世界に衝撃をもたらした貿易センタービル、国防総省同時テロによって数千名のアメリカ人が死亡した。これらは全てカイーダを含む世界イスラム戦線の犯行であるとされ、米軍は聖地アフガニスタンに侵攻、タリバンを打倒し、2003年にはテロ支援国としてイラクを侵略、フセインを逮捕する。イラクを新たな聖地とすべく、過激組織が続々とイラクに侵入、第2のアフガニスタンにするべく彼らは闘争を開始した。かつて侵攻ソ連軍さえ10年がかりのゲリラ戦で撃破した過激組織の長い戦いが始まったのである。アメリカは彼らのジハードにどう対抗するのか。いくらでも殉教したがっている若者は世界中にいるのである。


なぜ自爆するのか
彼らはなぜ自爆してまで戦うのか。自爆テロは最初パレスチナの抵抗運動の中でイスラエル軍を相手に行われた。
イスラム聖職者の中にはこれをシャリーアが禁じている「自殺」だといい、物議をかもした。これに対し、世界中のイスラム組織から批判があがった。
その内容は以下のようなものであった。
「イスラエルを打倒できる攻撃方法であるのでこれは殉教である」と。

憲法9条の解釈云々に似たようなことがイスラム社会でも行われているのだ。結論は出ぬまま今でも自爆は正当な攻撃方法として行われている。

彼ら青年が自爆にすすんで走る理由はかなり馬鹿馬鹿しいものである。コーランに「殉教したものは天界で美しい処女が与えられ、官能的な生活を送ることができる」とされているからである。
過激派の青年たちは性欲丸出しで自爆するものもいるとされる。理解しがたいがこういう説もあるということだ。

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